
▼もうそろそろ本棚の本の断捨離に入らなければ、そんなことを考える時期になっていた。ところがこれがとても難儀な作業であった!!
「いつかは役に立つことがあるかも」
なんて考えはじめると、なかなか前にすすまないのである。
そんななかで、古びて色あせた一冊の本がたまたま目にとまった。
奥付を見て驚いてしまった。
「昭和五十一年(1976)四月十五日初版発行」
と書いてあったのだ。なんとちょうど50年、半世紀前の本だ。
わずかながら、少しだけ読んだ痕跡はあるが、記憶にはまったくなかった。
▼今回はこの本を【お薦め本】にあげてみることにした。
そうすればまったく記憶から消えてしまっても、「記録」に残ることになるかもと考えたからである。
今回もまた、自分のための【お薦め本】ということになる。
◆【お薦め本】『長岡半太郎 朝日評伝選〈10〉』(板倉聖宣著 朝日新聞社 1976.4.15)
古本としては、まだ手に入りそうだ。
まずいつものように最初に3つのお薦めポイントをあげておく。
(1)等身大の語り口調で、人間・長岡半太郎をわかりやすく魅力的に語っている。
(2)ひとりの物理学者の生き方を通して、近代日本の科学史を伝えている。
(3)日本理科教育史にツナガル<科学>の歴史がわかる。
▼ではひとつずついこう。
(1)等身大の語り口調で、人間・長岡半太郎をわかりやすく魅力的に語っている。
「長岡半太郎」と聞いて、すぐさま思い出すのが「カミナリ親父」「土星型原子模型」「理化研」程度で、その実際をよく知らなかった。
偉い「かたぶつ」の大物理学者というイメージだった。
今さら、こんな本をというのが正直なところだった。
そんな気持ちをいっぺんさせる一文があった。
長岡半太郎は、日本では比較的よく知られている科学者の一人だが、それでも一般の人々は生涯や仕事のことをほとんど知らない。しかし、長岡の場合、日本の科学者としては珍しく一般人でも興味をひくような逸話に富んでいる。それは長岡が単なる官僚学者ではなかったことを物語るものである。長岡は生涯、日本特有の官僚科学者のわくから、はみでようともがき闘った。そのもがきは必ずしも効果をあげたとはいえないが、そこには、国家主義的な近代日本の社会の束縛をこえて科学者の創造の世界をひらこうという深い苦悩のあとをみることができる。だから、長岡の伝記は多くの日本人の興味をひきつける要素をもっていると私は思う。そこで私はこの本を書くことを思いたったのである。長岡半太郎の生涯と仕事とを描き出すことによって、近代日本の科学の性格を浮かびあがらせてみたい。というのが筆者の意図である。(同書P4より)
この著者の意図はみごとに成功していた。
それは、たぶんに著者のいつものようなわかりやすい等身大の語り口調の文体にも起因していると思う。
近代的な研究のあり方を理解していない「封建的なボス」
小学校のホンモノの「落第生」
等など 人間・長岡半太郎は逸話にことかかない魅力的な人物なのである!!
シロウトの私には、それを知っただけでも身近に感じ面白いと思った。
(2)ひとりの物理学者の生き方を通して、近代日本の科学史を伝えている。
自分が生きてきた時代の「科学史」すらおぼつかないのに、それ以前の明治・大正・昭和時代の近代日本「科学史」などまったくわかっていなかった。
長岡の科学者人生を通して、その具体を学んでみよう。
明治以後の日本の科学の発展とは、欧米における科学技術の進歩にたえず目を見張って、いつもそれからたちおくれないように紹介・摂取する官僚的な科学者群の増大以上のものをほとんど意味しないようになるのである。
長岡はそういう社会的条件のなかで物理学者として一人だちしていくのである。
(同書P51より)
ぼんやりとしたイメージはあるもののあまりにも遠い世界でのことと感じてしまっていたのである。
おそらく長岡はそれが大いに不満だったにちがいない。かれの官僚や軍、封建的な秩序に対するはげしい嫌悪は、このころ一層はっきりと自覚されてきていたにちがいない。自分の能力に自信をもった人間が、その能力の発揮をいろいろなところで拒まれたと自覚するとき、その障害に対して強い嫌悪の情をいだくようになるのはごく自然ななりゆきだからである。とくに長岡の場合は国を背負っているという自負があり、明確な大義名分にことかかない自信があったから、その感情が無遠慮なものになったとしても当然のことであったろう。
(同書P170より)
いかなる状況の下でも長岡の研究三昧な生活はつづいていた。
しかし、長岡はそういった自分の研究の現状に決して満足していたわけではなかった。かれは世界の物理学の主流にのりだす機会をねらっていたのだ。そして明治三十六年(一九〇三)、ついにその機会がやってきた。いそがしい実験物理学の仕事から手をひいた長岡に新しい研究領域が開けてきたのである。
(同書P174より)
▼では最後のお薦めポイントにいく。
(3)日本理科教育史にツナガル<科学>の歴史がわかる。
私たちは勝手に明治・大正期、戦前の<科学>と今学校で教えている<科学>とはちがうものだと思い込んでいるふしがある。
でもそれはちがう!!
ふたつの<科学>は地続きである!!
長岡が明治三十六年(1903)に発表したあの有名な「土星型原子模型」は、世界に通用し、現在も教室で有効な「原子論」なのである。
長岡の原子模型がトムソンのそれとくらべて物理学的にすぐれているところといえば、結局電子が陽電荷粒子の外側にあるはずだということに固執しただけしかなかった。ところが、長岡はのちに、まさにこの点において決定的に勝利することになった。J・J・トムソンの門下であったラザフォードが一九一一年のPhil.Mag.五月号に発表した論文「物質によるα粒子とβ粒子の散乱と原子の構造」によって「原子は、大きな質量をもち陽電荷をもったごく小さな原子核と、そのまわりをまわる多数の電子群とからなる」ということが、実験的に明らかにされたからである。長岡の素朴な機械論的な自然観が勝利したのである。(同書P189より)
そんな長岡も今から考えると、とんでもないミスをおかしてしまったことがある。
「水銀還金実験」である。
周期表みればよくわかるように金(Au)は水銀(Hg)のすぐ隣にある。だからなんらか手をほどこせば、水銀から金をとりだすことができるのではないか。「発見」の功をあせって実験ミスをおかしてしまったのだ。
これとて、授業に使えるエピソードかもしれない。そのとき、このこともさりげなくつけ加えたいものである。
長岡の水銀還金実験は結局のところ、かれの敗北におわった。しかし、だからといって、長岡の実験すべていいかげんだったということはできない。かれの水銀還金実験を認めない人でも、かれの分光学実験の精密さには驚いていたのである。長岡の水銀還金理論を導いたその分光学のデータから、核スピンの発見という大きな成果が生みだされもしたのである。(同書P249より)
そうだやっぱり<科学>はどこまでも地続きなんだ。
戦後の1949年の十一月四日、八十四歳の長岡にとてもうれしいニュースが飛び込んだという。湯川秀樹のノーベル物理学賞のニュースである。長岡は戦前からスウェーデンのノーベル賞委員会にあてて湯川氏を推薦していたからなおさらうれしかったのであろう。
受賞の翌年、帰国した湯川氏の「歓迎講演会」のとき、来賓として招待された長岡は檀上にあがらず、「湯川の話がききたい」とダダをこね、最前列の記者席で聴いたという。
うれしそうな「カミナリ親父」の顔が目に浮かぶようだ。
その4ヶ月の十二月十一日、長岡は満八十五歳でなくなった。
最後の最後まで、机上には研究発表のためのに読んでいた本を開いたままであったという。
長岡の<科学する>は時代を超えて貫かれていたのである。
<おまけ>
付録につけられた「長岡半太郎年譜」がとても興味深い!!
時代背景、社会背景と物理学(科学)史!!
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