本日(2025/11/29)、第427回オンライン「寅の日」!! #科学上の骨董趣味と温故知新 #traday #寺田寅彦

▼私は勝手に「日本理科教育史」を追っていた。
そのなかで1918(大正7)年を次のようにプロットしていた。
●「日本理科教育史」をプロットする!!(27) #1918年 #理科教育 #寺田寅彦
▼本日(2025/11/29)は、第427回オンライン「寅の日」である。
11月は、【理科の部屋】誕生月にちなみ「大正の理科教育」について読む。
【11月テーマ】「寅彦と大正の理科教育」
本日は、その三回目である。
読むのは「科学上の骨董趣味と温故知新」である。
◆本日(2025/11/29)、第427回オンライン「寅の日」!!
▼本随筆は1919(大正8)年の1月に発表されたものである。
実際は例の1918(大正7)年に書かれたものと思ってよいだろう。
タイトルの解題からはじまっていた。
科学者の修得し研究する知識はその本質上別にそれが新しく発見されたか旧くから知られているかによって価値を定むべきものではない。科学上の真理は常に新鮮なるべきもので骨董趣味とは没交渉であるべきように見える。しかし実際は科学上にも一種の骨董趣味は常に存在し常に流行しているのである。
しかしまた他の半面の考え方によれば、科学者の知識は「物自身」の知識ではなくて科学者の頭脳から編み上げた製作物とも云われる。そう考えれば科学者の欲求は芸術家の創作的欲望と軌を一にする訳である。しかしこういう根本問題は別としてもまだ種々な科学的骨董趣味が存在するのである。
昔から人々は多種多様の「私の科学」をもっていたのである。
その人々の科学というものに対する見解やまたこれを修得する目的においても十人十色と云ってよいくらいに多種多様である。実際そのためにおのおの自己の立場から見た科学以外に科学はないと考えるために種々の誤解が生じる場合もある。
すなわち当面の問題に多少の関係さえあれば、これが如何に目下の研究に縁が遠くまた如何に古くまた無価値ないしは全然間違ったものでも無差別無批評に列挙するという風の傾向を生じる事もある。
▼そして、いよいよ本論である。
危惧されることに警鐘を鳴らしていた。
最新の知識すなわち真である。これに達した径路は問う所ではないのである。実際科学上の知識を絶対的または究極的なものと信じる立場から見ればこれも当然な事であろう。また応用という点から考えてもそれで十分らしく思われるのである。しかしこの傾向が極端になると、古いものは何物でも無価値と考え、新しきものは無差別に尊重するような傾向を生じやすいのである。
ここに科学者・寅彦の本意があった。
しかし自分の見る所では、科学上の骨董趣味はそれほど軽視すべきものではない。この世に全く新しき何物も存在せぬという古人の言葉は科学に対しても必ずしも無意義ではない。
いよいよヒートアップしてくるのだった。
このような類例を探せばまだいくらでもあるだろう。新しい芸術的革命運動の影には却って古い芸術の復活が随伴するように、新しい科学が昔の研究に暗示を得る場合は甚だ多いようである。これに反して新しい方面のみの追究は却って陳腐を意味するようなパラドックスもないではない。かくのごとくにして科学の進歩は往々にして遅滞する。そしてこれに新しき衝動を与えるものは往々にして古き考えの余燼(よじん)から産れ出るのである。
さらに力説するのだった。
しかしその半面の随伴現象としていわゆる骨董趣味を邪道視し極端に排斥し、ついには巧利を度外視した純知識慾に基づく科学的研究を軽んずるような事があってはならぬと思う。直接の応用は眼前の知識の範囲を出づる事は出来ない。従ってこれには一定の限界がある。予想外の応用が意外な閑人的学究の骨董的探求から産出する事は珍しくない。
最後に繰り返し強く唱えるのだった!!
自分は繰返して云いたい。新しい事はやがて古い事である。古い事はやがて新しい事である。
と。

































































































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