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本日(2025/06/02)、第412回オンライン「寅の日」!! #ルクレチウスと科学 #traday #寺田寅彦

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▼正直に言うと、私のなかで「青空の青」と「原子論」がツナガッタのはごく最近のことだったのだ。
 「原子論的物質観」こそをと大きなことを口にしながらも、それらは別々の「知識」でしかなかった。
 ツナガッタ!!
 と思っていても、しばらく遠ざかっているとまた別々のものになってしまう。
 ツナゲテ 「見る」「観察する」「考える」
 そして「楽しむ」!!
 を繰りかえしているとひとつのものになってくるかな。

▼本日(2025/06/02)は、第412回オンライン「寅の日」である。
 6月のテーマは、この「原子論」である。
 具体的には「ルクレチウスと科学」を読むのである。

 【6月テーマ】「寅彦とルクレチウス」

 6月の三回ともこれを続けて読みたい。
 本日はその一回目である。
 
◆本日(2025/06/02)、第412回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(1)(青空文庫より)

▼これまた正直に言うと、私にはとても難解で長編だった。
 一応ひとつの目安として 次のように三回に分けておく。
(1) 緒言、一
(2) 二~四
(3) 五、六、後記 

 まず<緒言>である。
 これが書かれたのは、1929(昭和4)年9月である!!
約100年前であることを頭に置いて読むと、「原子論」の歴史も見えてくるかも知れない。
 <緒言>では、繰り返しルクレチウスの有効性を力説していた。

 要するにルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録(アポカリプス)である。そのままで現代の意味における科学書ではもちろんありうるはずがない。もしこの書の内容を逐次に点検して、これを現在の知識に照らして科学的批判を試み、いろいろな事実や論理の誤謬(ごびゅう)を指摘して、いい気持ちになろうとすれば、それは赤ん坊の腕をねじ上げるよりも容易であると同時にまたそれ以上におとなげないばかげた事でなければならない。

ヨハネは目的の上からすでに全然宗教的の幻想であるのに反して、ルクレチウスのほうは始めから科学的の対象を科学的精神によって取り扱ったものである。彼の描き出した元子の影像がたとえ現在の原子の模型とどれほど違っていようとも、彼の元子の目的とするところはやはり物質の究極組成分としての元子であり、これの結合や運動によって説明せんと試みた諸現象はまさしく現在われわれの原子によって説明しようと試みつつある物理的化学的現象である。

しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。

 次にかってに注目したキーワードが出てきた。「かぐ」である。
ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗(しんちょく)することはあり得ない。うそだと思う人があらば世界の学界を一目でも見ればわかることである。

 そして、ルクレチウスのすすめ をこう書いていた。
要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。
 一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。

 そして、ぜひとも注目しておきたいのは、寅彦こそがはじめて「ルクレチウスのすすめ」を書いた科学者なのである。
私はただ現代に生まれた一人の科学の修業者として偶然ルクレチウスを読んだ、その読後の素朴(そぼく)な感想を幼稚な言葉で述べるに過ぎない。この厚顔の所行をあえてするについての唯一の申し訳は、ただルクレチウスがまだおそらく一度も日本の科学者の間にこの程度にすら紹介されなかったという事である。

▼さあ、いよいよなかみの<一>である。
 より具体的にルクレチウスの有効性が語られていた。

 今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。
 
そしてここに述べられたアルファベットが寄り集まっていろいろな語を作るように、若干の異種の原子がいろいろに結合していろいろのものを作るという彼の考えはほとんど現在の考え方と同様である。のみならずおもしろい事には現在われわれは原子の符号にアルファベットを用い、しかもまたいろいろの物質をこれら符号の組み合わせで表わすのである。これは全然ルクレチウスの直伝である。

 元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
 物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。

 次には、空間と物質とが「それ自身に存在する」ただ二つのものであって、それ以外に第三のものはないという事を宣言している。その意味はすでに前述のごとく器械的力学的自然観の基礎として現代に保存されたものと同義である。

時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。
 
 このあたりまで来ると、ポンコツ頭には一回ではなかなかついていけなくなる。
 時間をかけての反芻作業が必要なようだ!!
 最後にもうひとつだけ引用させてもらおう。
 この物質量の無限大を論ずる条下に現われているもう一つの重要な考えがある。元子が集合して物を生ずるのは、元子の混乱した衝突の間に偶然の機会でできあがるものであって、何物の命令や意志によるのでもない。そういう偶然によって物が合成されうるためには無限の物質元子の供給を要するというのである。この「偶然」の考えも実に近代の原子説の根底たる統計力学の内容を暗示するように見える。

 次回までにも、時間をかけて反芻作業をつづけておきたい。

(つづく)
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