本日(2024/10/29)、第393回オンライン「寅の日」!! #映画芸術 #traday #寺田寅彦
▼野のヒガンバナはすっかり<葉の季節>にシフトしていた。
枯れてしまった花茎は、無惨にも絡み合い倒れている。
しかし、よく観察してみると、なかには凜として直立した花茎がある。
その花茎の先を見ると、子房部が膨らみはじめている。
おおっ、「自然結実」だ!!
▼本日(2024/10/29)は、第393回オンライン「寅の日」である。
10月のテーマは、「寅彦と芸術」である。
【10月テーマ】「寅彦と芸術」
本日は「映画芸術」の2回目を読む。
◆本日(2024/10/29)は、第393回オンライン「寅の日」!!
▼シロウトが考えるのに、もっともキモの「モンタージュ」のところまできていた。
後半のキモはここからはしまった。
あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
本論考の本意はここにあると思った。先日の「連句」のお話と関連して興味深い論考がつづく。
そうして序破急と言いあるいは起承転結と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型(ファクシミレ)を見いだすのである。
要するにこれらのモンタージュの要訣(ようけつ)は、二つの心像の識閾(しきいき)の下に隠れた潜在意識的な領域の触接作用によってそこに二つのものの「化合物」にも比較さるべき新しいものを生ずるということである。
それで映画や連句のモンタージュが普遍的な効果を収めうるためには、作者が示そうとする「通路」が国道であり県道であることが必要である。そうでないときは作者の一人合点(ひとりがてん)に陥って一般鑑賞者の理解を得ることは困難である。
▼さらに発展的に論考がつづく。
「映画」や「連句」にまったく不案内な私は、ただ私に響いてくるコトバを拾ってみる。
映画や連句の場合においても、一つ一つの顕在的な映像の底にかくれた潜在的内容が多量に存在している。モンタージュの秘密は、この潜在的内容の言葉で文章をつづって行く方法にあるとも言われる。
映画と連句とが個々の二つの断片の連結のモンタージュにおいてほとんど全く同一であるにかかわらず、全体としての形態において著しい相違のあるのは、いわゆる筋が通っているのと通っていないのとの区別である。多くの映画は一通りは論理的につながったストーリーの筋道をもっているのに、連句歌仙(かせん)の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである。
言葉の節約によって始めて発見されたおもしろい事実は、発声映画によって始めて完全に「沈黙」が表現されうるということであった。無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表現されるようになったのである。
そして、こう締めくくられていた。
それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。
そう言えば、長い間映画館で「映画」見たことないな。
今度、一度…!!
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