▼私は、ずいぶん昔になるが、次なる拙い文章をある教育雑誌に書いたことがある。
◆「南方マンダラ」にこれからの理科教育をみる (2010年3月)
なにもわかっていないくせにエラそうに!?
今、読み返してみると恥ずかしいかぎりである。
でも、やっぱりそれは「正しい」のかも知れない!?
と思わせてくれる本に最近出会った。
▼それが、今回の【お薦め本】である。
◆ 【お薦め本】『熊楠さん、世界を歩く。 冒険と学問のマンダラへ』(松居竜五著 岩波書店 2024.03.14)
いつものようにお薦めポイントを3つに絞る。
3つは相互に関連し、同じことにツナガッテイルが、前後しながら私の理解した範囲で紹介してみたい。
(1)焦点化されたテーマで、世界を「楽しむ」熊楠像を描く!!
(2)とても平易なわかりやすい文体で、誰もが読みやすい!!
(3)南方熊楠の世界を追体験(共有)してみたくなる!!
▼では、ひとつずつ行こう。
(1)焦点化されたテーマで、世界を「楽しむ」熊楠像を描く!!
ちょっとこれまでの「熊楠」本とちがうニュアンスを抱かせる本だった。
「はじめに」の文章を読むうちに、そのわけがわかってきた。
この文章をからわかるのは、熊楠さんが何よりも「楽しさ」というものにこだわった人だということだ。そもそも熊楠さんは世間的には「博物学者」と呼ばれているけれど、何をしたかと聞かれると、ひとことでは言い表せない。生物学者であり、民俗学者でもある。さらに歴史や文学、人類学や生態学など。今の学問で言えばとても「学際的」にいろいろな分野にまたがった研究をしていた。だから、熊楠さんのことを理解するのは難しいと、これまではかなり長い間、信じられてきた。
しかし、熊楠さんという人は、宇宙のすべてを対象としながら、「楽しさ」のために学問をしている人だと考えれば、とてもわかりやすいところがある。熊楠さんにとっては、学問的な制度や分野や枠組みは二の次だった。その時、その時の、自分の好奇心がおもむくままに、楽しみを宇宙から「心」に取り入れていただけだ。そういう意味からは、世間の評価とはうらはらに、実は「楽しさ」のみを追い求めた、とても理解しやすい人だったと考えた方がよいのではないだろうか。
筆者の考えでは、熊楠さんという人は、「子どもの眼」とでもいうべき純粋な好奇心を、一生にわたって持ち続けた人だ。熊楠さんの言っていることは、虚心坦懐に見れば、いつも当たり前の疑問からストレートにものごとをとらえた結果、生じたものであるように思える。そのため、こちらの方も学校で習ったり、インターネットで調べたりした生かじりの常識的な知識を捨てて向き合うと、熊楠さんのやっていることの整合性に納得がいく。
(同書 「はじめに」Pⅶより)
ナルホド!!納得である。ダカラか
さらに、この本の意図を次のように語っていた。
この本では、顕彰館を中心とした一次資料を十全に活用した上で、熊楠さんの内側からの視点を読者が体感することを目的としている。熊楠さんの見た世界を、まるで自分の中で繰り広げられるように感じてもらいたいというのが、筆者としてのちょっと高望みかもしれない願いだ。そのために「図鑑」「森」「生きもの」という三つのキーワードを設定してみた。熊楠さんが関心を持ち、世界の不思議を追い求めていった出発点が、そこにあるからだ。(同書「はじめに」Pⅷより)
それに呼応するように三つのキーワードに焦点化し、3部構成となっていた。
第1部 熊楠さん、図鑑の世界に目覚める
第2部 熊楠さん、世界の森をかけめぐる
第3部 熊楠さん、生きものを見つめる
「熊楠さん」研究の第一人者である著者が案内してくれる「熊楠さんの世界」は最高に楽しい!!
(2)とても平易なわかりやすい文体で、誰もが読みやすい!!
実は、これこそがこの本の最大の特色であり、最高のお薦めポイントかも知れません。
本のタイトルからして、親しみを込めて『熊楠さん、世界を歩く』となっていますよね。
この本の中では「熊楠さん」は、始終一貫しています。
この本のスタンスの意思表明が、早い段階でしてあった。
「はじめに」でも述べたことだけれども、熊楠さんが書いた原文はこんなふうに、今の読者から見るとやや読みにくい文語体で書かれている。そこで、この本では熊楠さんのことばの引用に関してはすべて、手軽に意味を読み取ることを重視した現代語訳で通したい。(中略)
こんなこんなふうに、エッセイ調のくだけた内容のものについては軽く、論文調の堅いものに関してはやや重厚に、あらたまった手紙の場合はていねいに、筆者の印象に沿って意訳していきたいと思う。熊楠さん以外のものでも、近世以前の文章は基本的にこれに準じることとする。
もしかしたら、この文体だと一般的な熊楠さんのイメージとは少し異なっていると感じられるかもしれない。ただ筆者としては、「はじめに」で述べたような、この人が生涯持っていた「子どもの眼」を活かすことを優先したい。そこで、そういう誰の中にもある「内なる熊楠さん」を意識した訳し方をしていきたいと考えている。(同書P4より)
スバラシイ!!大賛成デアル。
また、「ボク」へのこだわりもたいへん気に入った!!
そこで、この本での熊楠さんの主な自称を「ボク」とした。これは当然ながら賛否両論があるだろう。人によっては「こんないい子ぶった熊楠なんかイヤだ」と言われるかもしれない。そうした批判も、筆者として甘んじて受けるつもりだ。ただ筆者としては、熊楠さんと自分とを結ぶ最短距離にあるのがこの一人称だった。そして、子どもの頃から晩年まで一貫して自分の興味関心に忠実であり続けたこの人物のストレートな性格を表現する際には、やはりこの選択が最適だと思う。(同書「おわりに」P208より)
この本が、なぜこんなにも読みやすく面白いのか。わかる気がするのだった!!
ホンモノはわかりやすく面白い!!
▼では、最後のお薦めポイントに行こう。
(3)南方熊楠の世界を追体験(共有)してみたくなる!!
あの「知の巨人」の世界を追体験するなんておこがましい話だ。
しかし、この本に書かれた「熊楠さん」の世界なら、ちょっと覗くぐらいなら、私にもできかも知れない。そう思わせてくれるのがうれしい!!
私にとってのこの本の「本命」は、この章にあった。
14 「南方マンダラ」の構想からエコロジー思想にたどり着く
これまでの「冒険」と「学問」のマンダラはここに集約されていた。
これまでの各章はここへの序章に見えてくるのだった。
「萃点」は、ここにあった!!
この文脈のなかで、「南方マンダラ」とは
引用させてもらいはじめたら、きりがない気がする。
それこそ「蛇足」というものだろう。
と言いながら、やっぱり少しだけ引用させてもらおう。
なんと優柔不断な性格なんだろう。(自分でも呆れる)
熊楠さんは、「南方マンダラ」の一本一本の曲線は「事理」を意味していると説明している。それはつまり、一つの原因には一つの結果があるという、近代科学の「因果律」と呼ばれる原則を基礎として、自分の世界観を描こうとしたということだ。その無数の因果律は宇宙のすべてを貫いているから、それを一つひとつ解きほぐしていくことで、人間の考えの及ぶ範囲でならば、どんなことにもたどり着けるということになる。
それらの因果のみちすじ同士は、それぞれ時には偶然に近づいて、お互いに干渉し合ったりもする。そのことによって、熊楠さんの用語によれば「縁」が生まれ、それが「起」となって新たな因果を生みだす(図14-2)。だから、ここに描かれた複雑な世界は、さらに高次元の複雑な現象を引き起こし続けているということになる。そのようにして世界の中でさまざまなものごとが止むことなく、終わることなく進行していくようすを、熊楠さんは「不思議」という名でも呼んだ。学問とはその「不思議」を解き明かしていく作業ということになるだろう。(同書P177 より)
そして「萃点」についてはこうだ。
「南方マンダラ」の中心付近には、多数の線が交錯する場所に(イ)と記されている。この(イ)のような、さまざま地点とつながっている点のことを、熊楠さんは「萃点」と呼んでいる。ここから世界の考察を始めることができれば、多くの地点に素早く達することができる。つまり、学問的な観点から言えば、世界の全体が理解しやすい地点ということになる。ものごとを手早く知ろうとするならば、萃点を押さえるのが近道だ。(同書P178より)
これが、なぜこれからの「理科教育」と関係あると思ったんだろうか!?
その話は、また別の機会にしよう。
ともかくこれまでとはちょっとちがった「熊楠さん」の世界を存分に楽しめる本だ!!
久しぶりに「熊楠さん」を訪ねて行きたくなってきた。
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