「原子論」を科学する(23) #原子論の歴史 #原子論的物質観 #ドールトン #二人のD #ベルセリウス
▼ドールトンのこだわりの「原子一覧表図」にもアンモニアはあった!!
円に点の水素一個と円に縦棒の窒素一個が結びついてアンモニアになっていた。
あれっ!? 今の分子模型とちがうではないか、とあなどってはいけない。
その後の修正は他にもいっぱいある!!
しかし、次のことはゆるぎない事実である。
原子仮説を可視化してくれたのはドールトンである!!
▼「原子論」の歴史をつづけよう。
やっと、近代自然科学の「原子論」が誕生したばかりのところまでたどりついていた。
ドールトンがニュートンの影響を受けて、その原子論的物質観を、当然のこととして受け入れて、ラヴォアジエの元素各種の本体をそれぞれ固有の原子と考え、そうした原子を重さの測定のできるものにしたことは、前章に書いたとおりである。そしてニュートンの原子の出どころを源流までさかのぼればデモクリトスにたどりつくことはまちがいない。
(『原子論の誕生・追放・復活』P161より)
出た!!このフレーズ!!
「原子論的物質観」!!
▼いよいよ佳境に入って行く。
では原子論史上二人のDすなわちデモクリトスとドールトンとをつなぐ一本の赤い糸は何であったのだろうか。オリエント社会から高い物質文明、とくに鉄器文明を受けついだギリシア人の中から、自然と人工の事物についての豊富な知識にもとづいて、万物の根源を問う学問と思想が生まれた。彼らがさぐりあてたのは、物質不滅の原理であり、それと表裏一体の元素と原子にかんする概念であった。それは二〇〇〇年にわたる物質探究の源流となった。社会的生産力が高まって、人間が自然を加工する活動の発展につれて、物質的自然の知識はたくわえられ、物質不滅の原理は実践を助ける重量保存の法則に高められた。それとともに、元素と原子の概念は、より多く現実の物質と結びつけられたものに変貌し、これらを実験自然科学の理論の中に位置づける模索がつづけられた。
(『原子論の誕生・追放・復活』P161より)
「原子論」の歴史でいちばん大切なところになった。つづけてこうだ。
このように考えると、ドールトンが直接にデモクリトスから、たとえばルクレティウスの『物の本質について』を読むことによって示唆を受けることはなかったにせよ、ドールトンはやはりデモクリトスの直系の子孫だったといわないわけにはいかないのである。
ドールトンが論文や本にして提示した原子論は、科学理論としては生まれたての赤ん坊のようなものであった。それでもこの仮説はドールトンその人を導いて倍数比例の法則という実験的事実を発見させることに役立った。
(『原子論の誕生・追放・復活』P162より)
▼ドールトンの波紋は広がった!!
この新理論の波紋は広くヨーロッパ各国にひろがった。スウェーデンにはべルセリウスという化学者がいた。彼はドールトンのいくらかあやしげな不正確な実験データにもとづく原子量を正確なものにするために、二〇年にわたって原子量の決定をつづけた。それは化学分析をし、計算をするだけの作業ではなかった。酸素の原子量をきめるには、水の分子はドールトンが仮定したようにHOでよいかどうかという問題から出発しなければならなかった。そして、水素ガスと酸素ガスとが二対一の体積比で化合することに着目して水の分子はH2Oとすることにきめた。そうすると酸素原子は水素原子の一六倍重い、すなわち酸素の原子量は一六ということになる。
(『原子論の誕生・追放・復活』P162より)
原子仮説はますます面白くなっていくのだった。
(つづく)
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