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本日(2021/09/03)、第294回オンライン「寅の日」!! #俳句の精神 #traday #寺田寅彦

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キツネノカミソリの「自然結実」がはじまっていた!!

 ヒガンバナの仲間であるキツネノカミソリは、先月(8月)の20日には満開に咲いていた。
 そのキツネノカミソリに、今、アタリマエに実ができていた!!
 実が完熟すれば、なかから真っ黒な「種子」が顔を出してくる。
 花が咲き実ができて、そこから「種子」が採れる!! このアタリマエ!!

 キツネノカミソリは2倍体(2n=22)デアル!!

 でも日本のヒガンバナは!?
 ヒガンバナの「ふしぎ!?」を「科学」する!!
 それは少し大げさに言えば、私のライフワークである。

 その「科学」と「俳句」を同一直線上で語ってもよい。そのことこそ意味があると教えてくれたのは寅彦だった。

▼本日(2021/09/03)は、第294回オンライン「寅の日」である。
 オンライン句会「寅の日」は、2年目に入っていた。
 それを記念して、9月テーマは次のようにしていた。

【9月テーマ】「寅彦と俳句」

 その一回目の本日は、「俳句の精神」を読む。

◆本日(2021/09/03)、第294回オンライン「寅の日」!!

●「俳句の精神」(青空文庫より)

▼寅彦は最後の「付言」にこう言っていた。

 以上は自分の自己流の俳句観である。

と。発表されたのは、(昭和十年十月、俳句作法講座)である。
 昭和十年と言えば、最晩年である。その年の大晦日に寅彦は亡くなっている。
 だから、この「俳句観」は寅彦の俳句についての集大成とも言えるのかも知れない。
 
 私自身まだまだ咀嚼できていなくて、引用をはじめたらとどめなく多くなってしまいそうだ。
 寅日子先生の教えに反することになるかも知れないが、できるだけ少なくを心がけながら引用させてもらおう。
 まず一章は
 「俳句の成立と必然性」からはじまる。
 同時期にかかれた「日本人の自然観」といろんなところでリンクしているように思われる。

 日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに、人間と自然とをいっしょにしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。
また別の言い方をすれば西洋人は自然を征服しようとしているが、従来の日本人は自然に同化し、順応しようとして来たとも言われなくはない。
 この自然観の相違が一方では科学を発達させ、他方では俳句というきわめて特異な詩を発達させたとも言われなくはない。

 これ以上は、それぞれの人の文脈で読んでもらうことにして、次へ行こう。
 次に<季題>について、次のように語っていた。

「春雨」「秋風」というような言葉は、日本人にとっては決して単なる気象学上の術語ではなくて、それぞれ莫大(ばくだい)な空間と時間との間に広がる無限の事象とそれにつながる人間の肉体ならびに精神の活動の種々相を極度に圧縮し、煎(せん)じ詰めたエッセンスである。またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文(じゅもん)の役目をつとめるものである。そういう意味での「象徴」なのである。
一つはすでに述べたとおり、日本人の自然観の特異性によるのである。ひと口に言えば自然の風物にわれわれの主観的生活を化合させ吸着(アドソーブ)させて自然と人間との化合物ないし膠質物(こうしつぶつ)を作るという可能性である。
 俳句における季題の重要性ということも同じ立場からおのずから明白であろう。限定され、そのために強度を高められた電気火花のごとき効果をもって連想の燃料に点火する役目をつとめるのがこれらの季題と称する若干の語彙(ごい)である。

そして、<俳句の可能性>について、次のようにまとめていた。

 十七字のパーミュテーション、コンビネーションが有限であるから俳句の数に限りがあるというようなことを言う人もあるが、それはたぶん数学というものを習いそこねたかと思われるような人たちの唱える俗説である。少なくも人間の思想が進化し新しい観念や概念が絶えず導入され、また人間の知恵が進歩して新しい事物が絶えず供給されている間は新しい俳句の種の尽きる心配は決してないであろう。

 「俳句」\(^O^)/

▼やっぱり引用が多くなってしまう。(^^ゞポリポリ
 これは私の読み解きが未熟故であろう。
 第二章
 「二 俳句の精神とその修得の反応」
 
 <不易流行>はこう語られた。
 

「春雨」「秋風」は日本人には直ちにまた人生の一断面であって、それはまた一方で不易であると同時に、また一方では流行の諸相でもある。「実」であると同時に「虚」である。

 「俳句」のキモはここにありと

 このように自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである。
それどころか、ややもすればわれわれの中のさもしい小我のために失われんとする心の自由を見失わないように監視を怠らないわれわれの心の目の鋭さを訓練するという効果をもつことも不可能ではない。

 さていよいよ<俳句修業>の心得!!である。

 俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨(れんま)を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。これが修業の第一課である。
しかし自然の美しさを観察し自覚しただけでは句はできない。次にはその眼前の景物の中からその焦点となり象徴となるべきものを選択し抽出することが必要である。これはもはや外側に向けた目だけではできない仕事である。自己と外界との有機的関係を内省することによって始めて可能になる。

そして、<俳句修業>の極意を次のように語る。

 一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。

 断捨離こそ<俳句修業>の極意デアル!!

 さあ!!
 寅日子先生の教えを繰り返し反芻しながら2年目もスタートだ!!

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