本日(2021/01/06)、第274回オンライン「寅の日」!! #震災日記より #traday #寺田寅彦
▼年譜によれば
●1923(大正12)年 9月1日、二科会展を見に行き大地震に遭う。自宅の被害はなし。大震後、学問的な種々の調査を精力に行なう。 寅彦 46歳
(『寺田寅彦~天然に育まれし眼差し~(年譜)』高知県立文学館 より)
▼本日(2021/01/06)は、第274回オンライン「寅の日」!!
2021年はじめてのオンライン「寅の日」である。1月のテーマはきめていた。
【1月のテーマ】「寅彦と現代社会」
である。第一回目の本日読むのは「震災日記より」である。
最初にあげた大地震に遭った当日、その前後数日の日記である。
◆本日(2021/01/06)は、第274回オンライン「寅の日」!!
▼ウメサオタダオのあの言葉を思い出す。
「ものごとは、記憶せずに記録する。」
さすが寅彦、みごとな「記録」である。「記録」されてから100年近く経った今もきわめて有効である。
プロの「記録」は的を射ていた。
少しその「記録」をみてみよう。
椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。
すぐさま「安政地震」にツナガルあたりは、やっぱりスゴイ!!
その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向(あおむ)いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。
主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
あとで考えてみると、これは建物の自己週期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。
▼翌日九月二日の日記に次のように「記録」されていた。
焦げた樹木の梢がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のように焼けずに残っている。松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑く咽(むせ)っぽく眼に滲(し)みて進めない。
御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台するがだいは全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。
この光景を目の当たりした寅彦は、すぐさま「火災旋風」の被害調査にのりだす。
同じく二日の「記録」には、こんなことも書いていた。
いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊(はいかい)するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入(い)るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
これに関連して、翌年(1924年)の9月には「流言蜚語」を書いていた。
これは今日も、いや今こそ有効である!!
「寅彦と現代社会」を語るなら必読の一文である!!
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