サイエンスコミュニケーター宣言(419) #日本理科教育史
▼本日は「処暑」である!!
昨日も猛暑日は続いていた。しかし、「雲見」の空はいっときにくらべると少し変化してきているように見えた。
ところで、「雲見」というコトバ。
ずいぶん昔から使われてきたアタリマエのコトバのように思える。
しかし、どうやらそうではないようだ。私の知るかぎりではあの宮沢賢治がはじめてのようだ!!
「蛙のゴム靴」(宮沢賢治著 青空文庫より)に次のようなシーンが出てくる。
ある夏の暮れ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋は、カン蛙の家の前のつめくさの広場に座って、雲見といふことをやって居りました。一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯を見ることが大すきです。じっさいあのまっしろなプクプクした、玉髄(ぎょくずゐ)のやうな、玉あられのやうな、又蛋白石(たんぱくせき)を刻んでこさへた葡萄(ぶだう)の置物のやうな雲の峯は、誰(たれ)の目にも立派に見えますが、蛙どもには殊にそれが見事なのです。眺(なが)めても眺めても厭(あ)きないのです。そのわけは、雲のみねといふものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)てゐますし、それから春の蛙の卵に似てゐます。それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処ところを、蛙どもは雲見をやります。 「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」 「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思はせるね。」 「実に僕たちの理想だね。」
どんなアタリマエにもはじまりがあるかも知れない!?
▼サイエンスコミュニケーターとしての「現在地」の検証をつづけよう。
最後の第五の座標軸にいこう。
(5) 日本理科教育史を現在進行形のかたちでまとめる。
なんと遠大なる座標軸だろう。
ひとりのポンコツ理科教師が語るには大風呂敷過ぎる話だろうか!?
▼「日本理科教育史」と聞いてすぐさま思い出す著書があった。
●『増補・日本理科教育史 付・年表』(板倉聖宣著 仮説社 2009.04.10)
原著初版は1968年3月1日である。
まさに「日本理科教育史」のはじまりから、現代までをくわしくわかりやすく語った名著である。
特に付録の「年表」が気に入っていていた。
ところが、その年表は2009.4.01で途切れていた。
著者板倉聖宣氏が亡くなられたのは2018年2月7日である。途切れていた年表はその後、追記されたのだろうか?
そのことがずっと気になっていた。
また年表を引き継ぐ作業は今あるのだろうか?
それが知りたい!!
▼私の座標軸の話にもどろう。
私が「日本理科教育史」というとき、もう少し等身大の歴史の話である。
自らの理科教師としての歩みは、「日本理科教育史」のどう関連しているのか?
ウメサオタダオのあのコトバが…。
ものごとは、記憶せずに記録する。
ひとりひとりが、その歩みを記録し、それらをツナゲバ、最高に面白い「日本理科教育史」になるかもしれない。
まずは、小さな事実のプロットからはじめよう!!
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