本日(2020/04/05)、第250回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼オンライン「寅の日」9年目の歩みがはじまる!!
8年前の2012年4月歩みはスタートした。はじめは「面白くなくなったら、すぐやめよう」と思っていた。
それが、一度の延期・中止もなくここまで来てしまった。
なぜだろう!? わけははっきりしていた!!
寅彦はいつ読んでも今日的である!!
からである。
寅彦が亡くなったのは1935年。もうそれから85年だ!!
ところが、寅彦の随筆を読む度に驚いた。
それが、いつもたった今書かれたものに思えてしかたなかった!!
今、世界はとんでもない危機的状況にある。
この状況の中で寅彦ならば、今、なにをどう語っただろう!?
▼本日(2020/04/05)は、9年目のスタートというだけでなく、記念すべき第250回オンライン「寅の日」である。
4月のテーマはきまっていた。
【4月テーマ】 「科学・科学者とは!?」
である。ずいぶんタイムリーなテーマである。本日はその第一弾として、「科学者とあたま」を読む。
◆本日(2020/04/05)、第250回オンライン「寅の日」!!
▼今、「寅彦の随筆でいちばんのお薦めは?」と問われれば、まちがいなくこの「科学者とあたま」をあげるだろう。
オンライン「寅の日」のなかでも何度も繰りかえし読んできた。
しかし、今回また読みなおしてみると、あらためて納得すること、感動することしきりである!!
思わず膝をたたいたところをピックアップしてみよう。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン 納得デアル!! 「単なる科学教育者にとにかく」には反駁したい気持ちもあるが…。 さらなに寅彦のコトバは説得力を増していく。
自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
さらに続けてここまで言い切る。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
▼「頭の悪さ」を自覚し、ひとつの売りにまでしている私などにはチクリと痛いところもつかれる。
さすが寅彦だ!!
頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
示唆的なひと言も忘れてはいなかった。
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。
最後にこう問いかけている。
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑(え)みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。
あなたはこの随筆を読んでどう思いますか!?
9年目もよろしくお願いします。<(_ _)>
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