本日(2019/08/09)、第230回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼先日読んだ『青の物理学』(ピーター・ペジック 著 , 青木 薫 訳 岩波書店)で、次の文章に出会ったとき私は愕然とした!!
青空の謎を解くための道のりは、小さな世界へと向かう旅である。なぜなら、もしも原子が実存しなかったなら、空は青色になりえなかったのだから。空に目を向けるとき、わたしたちは原子論の正しさを証明する証拠のうち、もっとも美しいものを見ているといえよう。(同書p184より)
正直に言って、私の頭の中で「青空」と「原子論」とはそんなにダイレクトにツナガッテいなかった!!
あれほど「原子論的物質観を…」と言っておきながら
「レイリー散乱」と言うコトバでわかったつもりになっていただけかも。
今一度、私にとっての「原子論」って!? を問うてみたくなってきた。
▼本日(2019/08/09)、第230回オンライン「寅の日」である。
8月のテーマは、上記の私自身の課題に沿ったかたちで、勝手にきめさせてもらった。
長編「ルクレチウスと科学」を読むことにした。
寅彦がかくも熱くルクレチウスを語ったのか!?
その謎解きをすることが、上記の課題に応える途であるとも考えていた。
◆本日(2019/08/09)、第230回オンライン「寅の日」!!
●「ルクレチウスと科学」(1)(青空文庫より)
▼実はオンライン「寅の日」で「ルクレチウスと科学」を読むのはこれで3回目である。
これまで2回はいずれも一ヶ月かけていた。だから「寅の日」の回数で言えば、5回(日)である。
ポンコツ頭はますますさび付いてきているのだろうか!?
寅彦のコトバが頭に入ってくるのに時間がかかる。(^^ゞポリポリ
要するにルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録である。そのままで現代の意味における科学書ではもちろんありうるはずがない。
ヨハネは目的の上からすでに全然宗教的の幻想であるのに反して、ルクレチウスのほうは始めから科学的の対象を科学的精神によって取り扱ったものである。彼の描き出した元子の影像がたとえ現在の原子の模型とどれほど違っていようとも、彼の元子の目的とするところはやはり物質の究極組成分としての元子であり、これの結合や運動によって説明せんと試みた諸現象はまさしく現在われわれの原子によって説明しようと試みつつある物理的化学的現象である。
しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。
実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑に強い共鳴を感じさせないではおかないものがある。のみならず、たとえ具体的にはいかに現在の科学と齟齬しても、考えの方向において多くの場合にねらいをはずれていないこの書物の内容からいかに多くの暗示が得られるであろうかという事はだれでも自然に思い及ばないわけには行かないであろう。▼寅彦のルクレチウスを熱く語る言葉はつづく!!
十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
今もしルクレチウスが現代の科学者にとって有効に役立ちうるとすれば、それはまさにこの稲妻の役目をつとめうる点である。
要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。
一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。そういう学生にとってルクレチウスが確かに一種のヴィタミンの作用を生じうるであろうと考えるのである。
とりわけ若い人に「ルクレチウス」を薦めているのが印象的である。
なんと、ここまでで「緒言」が終わっただけである。
本論はここからである。到底もう一回でおわりそうにない。(^^ゞポリポリ
なお本論については、あわせて
◆『物の本質について』(ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波文庫) を読まれることをお薦めする。
まだまだ道は遠そうだ!!
(つづく)
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