本日(2019/01/17)、第213回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒
その時間が近づいてきた。
24年前も同じ姿勢でパソコンに向っていた。すでに【理科の部屋】ははじまっていたのだ。
この日が近づくと、自分の暮らす地域の「動く大地の物語」が気になり出す。
宿題完成はまだまだ遠い。しかし、いかに遅々たる歩みになろうともやめるわけにはいかない!!
ゆっくり ゆっくり急ごう。
▼今年は「1.17 あれから24年の歳月が!!そして…」と、オンライン「寅の日」が偶然にも重なってしまった。
これまた何かの縁なのかも…。
本日(2019/01/17)は、第213回オンライン「寅の日」である。
2019年の1月のテーマは
【1月のテーマ】 「寅彦と映画」
である。私にはなかなか挑戦的なテーマである。
本日はその第二弾、「映画時代」を読む。
◆本日(2019/01/17)、第213回オンライン「寅の日」!!
▼なんと言えばいいのだろう!?
こんな感じをどう表現すれば伝わるだろう!?
なんとなく予感がする!!
「ここに寅彦を読み解く鍵が隠されている!!」そんな予感である。
しかし、不勉強がたたり、なかなかそれがここだと捜し出すことができない。なんとも言えぬもどかしが…
順を追ってみていこう。
思い出話をしているように思わせながら、どうやらことの核心にせまっていったようだ。
しかしあのろうそくの炎の不定なゆらぎはあらゆるものの陰影に生きた脈動を与えるので、このグロテスクな影人形の舞踊にはいっそう幻想的な雰囲気(ふんいき)が付きまとっていて、幼いわれわれのファンタジーを一種不思議な世界へ誘うのであった。
それはとにかく、もし現代の活動映画が「影の散文か散文詩」であるとすれば、こういう影人形はたとえば「影の俳句」のようなものではあるまいか。
「影人形」!!どうやらこのあたりに第一の鍵が…
次にいこう。
こういう現実味からいうと演劇フィルムは多くははなはだ空疎なものである。プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さないというのが立て前であるらしい。これは劇の性質上当然のことかもしれないが、舞台で行なわるる演劇とフィルム劇とは必ずしも同じでない以上、フィルムにして始めて生ずる可能性を活用するためには、もう少し天然の偶然的なプロットを巧みに生かして取り入れて、それによって必然的な効果をあげたらよくはないか。
これに対する有益なヒントはたとえば俳諧(はいかい)連句(れんく)の研究によっても得られる。連句における天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移の間に、われわれはそれらのシーンの底に流れるある力強い運動を感じる。
このあたりから頻繁に飛び出す「俳諧連句」!!
連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然(こんぜん)たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれる人はないものかと思うのである。
実物と同じに見せるということは絵画の目的でないと同様に映画の目的でもない。実物を見たのでは到底発見することのできないものを発見させるところに映画の特長があるのではないか。
どこかで囓り聞いた「連句的」物理学というコトバを思い出した。
「連句」!!ここに第二の鍵が…
私のいちばんの興味もこのあたりにある。
▼勝手な読み解きをすすめる。
もうひとつ鍵があるように…。
絵巻物というものの最初のイデーはおそらく舶来のものかもしれないが、ともかくこれはかなりに偉大なイデーである。そうしてある意味で活動映画の先駆者と見なしてもよいものである。
絵巻物では、一つの場面から次の場面への推移は観覧者の頭脳の中で各自のファンタジーにしたがって進転して行く。巻物に描かれた雲や波や風景や花鳥は、その背景となり、モンタージュとなり、雰囲気(ふんいき)となり、そうしてきたるべき次の場面への予感を醸成する。そこへいよいよ次の画面が現われて観者の頭脳の中の連続的なシーンと「コインシデンス」をする。そうして観者の頭の中の映画に強いアクセントを与え、同時に次の進展への衝動と指針を与える。これは驚くべき芸術であるとも言われなくはない。
「絵巻物」!!ここに第三の鍵が…
未知なる分野の講演を聴くとき、シロウトである私は、講師先生の声の大きさでそのポイントとなるところを抽出する。同じことをここでやってみた。
寅彦の声が大きくなっているのは
「影人形(影法師)」
「連句」
「絵巻物」
この3つ!?
もうすぐあの時間だ。 合掌
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