本日(2018/10/13)、第204回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼黄金色に輝く稲田が、西谷川のカーブに沿って広がる!!
お気に入りの景だ。
しかし、この景ももうすぐ見納めである!!
そう思うとなおさら美しく見えてくるのである。
その景をじっと見ているとその遠景の「水平」の「ふしぎ!?」を思い出した。
いつかはこの「水平」の謎解きやり、「動く大地の物語」を書いてみたいと思っていたがそのままになっていた。
「稲田」「大地の水平」そしてその上の「雲見」!!
ひとつの景からはじめて「科学する」は面白い!!
「科学する」は「文学する」にツナガルか!?
▼本日(2018/10/13)は、第204回オンライン「寅の日」である。
10月のテーマは
【10月テーマ】 「寅彦の科学と文学」
である。読むのはズバリそのもの「科学と文学」である。
その2回目である。
◆本日(2018/10/13)、第204回オンライン「寅の日」!!
▼2回目であるが、再び最初から読み進めてみる。
・言葉としての文学と科学
・実験としての文学と科学
・記録としての文学と科学
・芸術としての文学と科学
読み進めていて、はたと気づいた!!
「○○としての文学と科学」となっている。「○○としての科学と文学」ではないのである。
世界文学講座に寄稿した文であるからそうなったのであろうか?
真意は私にはわからない。
勝手に推察すると、ここに寅彦の「トリック」がある。
いかにも「文学」と「科学」を対等にあつかっているように見せかけて、その軸足は常に「科学」にあった。
私にはそう思えるのだ。
「科学する」→「実験する」→「文学する」!!
いつのまにやらすり替っている。でもやっぱり納得してしまうから凄い!!
少し気に入ったところを拾ってみる。
一方で、科学者の発見の径路を忠実に記録した論文などには往々探偵小説の上乗なるものよりもさらにいっそう探偵小説的なものがあるのである。実際科学者はみんな名探偵でなければならない。
歴史は繰り返す。方則は不変である。それゆえに過去の記録はまた将来の予言となる。科学の価値と同じく文学の価値もまたこの記録の再現性にかかっていることはいうまでもない。
▼そして、いよいよ本意の主張に近づいていく。
・文学と科学の国境
では、あの言葉が出てくる。弟子である中谷宇吉郎も大好きだった文章だ。
顕微鏡で花の構造を子細に点検すれば、花の美しさが消滅するという考えは途方もない偏見である。花の美しさはかえってそのために深められるばかりである。花の植物生理的機能を学んで後に始めて充分に咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることもできるであろう。そして、寅彦の主文脈にいたる。私はかねてより寅彦はこれが言いたいがためにこの随筆を書いたと思っている。
そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
詳しくは次回に…。
夕方の「雲見」の像は美しかった!!
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