本日(2015/02/19)、第90回オンライン「寅の日」!! #traday
▼昨日(2015/02/18)の朝はとっても不思議な天気だった。
小学生が列をつくって登校していた。通勤の車がせわしく走っているそんな時間帯のことだった。
玄関を出たら朝日が眩しかった!!
なのに雨が降っていた!!
西の空を雨雲が見えた!!
「これは虹が見えるぞ!!」と思い慌てて家に入りカメラをもってきた。
やっぱり、ほんとうに虹が見えてきたのだ。
私は、ますます強く確信した!!
私たちはまちがいなく「大気の物理学実験室」のなかにくらしている!!
▼そうその「物理学」を学ぶのが今日(2015/02/19)だ。
本日は第90回オンライン「寅の日」。
読むのは「寺田物理学」第二弾「物理学と感覚」。
寅彦が本格的に随筆を書き始める前、大正6年(1917年)11月、彼が40歳ときの文章である。
◆本日(2015/02/19)、第90回オンライン「寅の日」
▼正直に言おう。私には「難解」である。
昨日と今朝2回読んでみた。まったくと言っていいほどわからないのである。
これはたぶんに私が「物理学」を不勉強であったことと関係しているのだろう。
こんなこと今さら言ってもはじまらない(^^ゞポリポリ
でも、これを読み解きたい意志だけはある。
トンチンカンなことになると思うがこんなこと言っているのかな、と思うところを引用させてもらう。
世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。
このように外界の存在を認めその現象を直接に感ずるのは吾人(ごじん)の感官によるほかはないのにその感官がすこぶる粗雑なものであってしかも人々個々に一致せぬものである。それで各人が自分の感覚のみをたよって互いに矛盾した事を主張し合っている間は普遍的すなわちだれにも通用のできる事実は成り立たぬ、すなわち科学は成り立ち得ぬのである。 それで物質界に関する普遍的な知識を成立させるには第一に吾人の直接の感覚すなわち主観的の標準をいったん放棄して自分以外の物質界自身に標準を移す必要がある。これが現代物理的科学にみなぎりわたっている非人間的自然観の根元である。
▼ここまでで終われば、私はこんなに「寅彦」にはまらなかっただろう。
90回まで続けてきたおかげで、深い読み取りはできなくても、文章展開の「手口」のようなものが少しだけ読めるようになってきた。
最後の一文がきっと寅彦の言いたかったことではないだろうか。
物理学を感覚に無関係にするという事はおそらく単に一つの見方を現わす見かけの意味であろう。この簡単な言葉に迷わされて感覚というものの基礎的の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義でかえって自然を蔑視(べっし)したものとも言われるのである。
ここにこの後展開される独特の「寺田物理学」の萌芽を見る気がするがするのだがどうだろう?
わからぬままに書いてみた。
今回ほどもっと「物理学」を勉強しておけばよかったと思ったことはない。
今日中にもう一度、3回目読んでみたい。
昨日は、朝虹だったが青空の多く見られる「雲見」だった。
さあ、今日はどんな「実験」に出会うかな。
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