サイエンスコミュニケーター宣言(347)
▼もうそう驚きはしなかった!!
しかし、感動はじわりじわりと膨らんでいった!!
明日のヒガンバナ「自然結実」観察オフの下見に、昨年定点観測地のひとつとしていた場所に行ってみた。
ごくごくアタリマエに、子房部がふくらんだ花茎がいくつも立っていた。
「予想以上にヒガンバナ「自然結実」の頻度は高いのでは」という作業仮説は確信が出てきた。
感動である!!
ヒガンバナ「自然結実」発見物語のシナリオは少しずつ変わろうとしていた。さらに明日の観察オフで大きく変わるかも知れない。
楽しみである!!
▼かくのごとく「私の科学」のはじまりは、「観察」「実験」からはじまっていた。
「観察」「実験」して得た事実を記録する。
そして「作業仮説」をたてる。
なにごとにもシロウトであるが故に、専門的な「こなだわり」はない。まったく異質なもの、異次元なものと思われることも大胆にツナゲタ。
間違っていることも多々あるだろう。
間違いに気づけば軌道修正をすればいい。その展開も面白い!!
もともと「科学」の歴史なんて、「失敗」「軌道修正」の連続であったのでは…。
▼オンライン「寅の日」で読んだ『雑感』のなかで、寅彦がエールを送ってくれていた。
科学教育の根本は知識を授けるよりもむしろそういう科学魂の鼓吹にあると思われる。しかしこれを鼓吹するには何よりも教育者自身が科学者である事が必要である。先生自身が自然探究に対する熱愛をもっていれば、それは自然に生徒に伝染しないはずはない。実例の力はあらゆる言詞より強いからである。
すべての小学校、中学校の先生が皆立派な科学者でなければならないという事を望むのは無理である。実行不可能である。しかしそんな必要は少しもない。ただ先生自身が本当に自然研究に対する熱があって、そうして誤魔化さない正直な態度で、生徒と共に根気よく自然と取込み合うという気があれば十分である。先生の知識は必ずしもそれほど広い必要はない。いわゆる頭の良い必要はない。
間違いを教えたとしてもそれはそれほど恥ずべき事ではない。また生徒の害にもならない。科学の歴史は一面から見れば間違いの歴史である。間違える事なしには研究は進められない。誤魔化さないことだけが必要である。
▼「理科教師は「科学者」か?」
古くて新しい命題である。
その答えのひとつがここにある。
この命題に対する私自身の答えは少し曖昧である。
ある面では「科学者」であるべきだと思っているし、「科学者」願望があることも事実だ。
しかし…。
今、一方でもっと確信を持って言えることがある。
それは、すべての理科教師は、「理科授業」というサイエンスコミュケーション最前線の場にいる。
間違いのない事実だ。
だから
理科教師こそ、最前線のサイエンスコミュニケーターだ!!
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