サイエンスコミュニケーター宣言(346)
▼「小春日和」というのはこんな天気を言うのだろうか。
冷い北風は少しゆるんでいた。おだやかな天気だ!!
雲のない「雲見」が続いていた。夕方になると少し様子が違ってきた。それまでは、高い青空を飛ぶ飛行機の機体が確認できていた。やがて、少し飛行機雲を残すようになってきた。
少し雲の種類も増えてきた。天気は少しずつくずれていくのだろうか。
「雲見」のうたを歌い、「上がるとザアザア 下がるとカラカラ」と何度か唱えながら明日の天気を予報する。
これが「私の科学」の方法だった。
▼そもそも、この「私の科学」とはなんだろう?
なんとも漠然とした言い方だ。
これまで遍歴してきた「○○の科学」の集積したもの、未来に可能性を託したもの。
「私の科学」≒「常民の科学」+「等身大の科学」+「高いレベルの科学」+…+…
誰もが自分固有の「私の科学」を持っている。
自分以外の人の「私の科学」に出会うことは、とても楽しいことであり、自分自身の「私の科学」をより深く広く豊かにしてくれる。
▼私は、今、手作り名刺の肩書きに「サイエンスコミュニケーター」と書いている。
その名刺を使うことは滅多になくなってきたが、ときたま名刺交換をする。
初対面の人は、まあ挨拶がわりという意味もあるのだろう、きまってこの質問が出てくる。
「へー、…サイエンスコミュニケーターってどんなことやっておられるのですか?」
「…」
私も、きまって即答を躊躇する。
「まあ、今は理科の授業づくりに関係するようなことを…」
と少し茶を濁したように答える。
ほんとうは
「サイエンスコミュニケーションの場の創出に関係するようなことならなんでも…」
と、かっこつけて言ってみたいが、それは当面できそうにない。
▼では、その「私の科学」と「サイエンスコミュニケーター」とどう関係するのだろうか。
そこがいちばんの問題である。
サイエンスコミュニケーションの場で交流されるの中心は「私の科学」でなければならない。
どこか別のところにある「科学」を持ってきて、一方通行で伝えられるのはサイエンスコミュニケーションではない。
それは単なる講習会であり、伝達の会である。(もちろんそれを全面否定するつもりなどさらさらない。むしろ、そのような会も絶対に必要だと思っている。)
「私の科学」の特徴と可能性についてもう少し考え続けてみよう。
(つづく)
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