本日(2014/08/23)、第74回オンライン「寅の日」!! #traday
▼昨日の「雲見」は少し恨めしい思いになるものだった。
午前中には一時激しい雨も降ってきた。
考えてみると「その地」は遠くの世界の話ではなかった。
空もツナガッテイタ
山も直接ツナガッテイタ
「その地」は「この地」でもあった。
あらためて「自然」とは…。
▼寅彦は最晩年まで『天災は忘れたころにやって来る。』の警鐘を鳴らし続けた。
本日(2014/08/23)は、第74回オンライン「寅の日」だ。
今すぐ私にもできることのひとつが、この寅彦の警鐘に耳を傾けることなのかも知れない。
読むのは『颱風雑俎』。室戸台風の翌年、寅彦の最晩年に書いたものである。
▼この前年に『天災と国防』を、そして前々年には『津浪と人間』を発表していた。
その『津浪と人間』のなかでも
・「自然」は過去の習慣に忠実である。
・科学の方則とは畢竟(ひっきょう)「自然の記憶の覚え書き」である。
と警鐘を鳴らし続けていた。
そして、それはここでも変わらなかった。
「室戸台風」のことからはじまっていた。
そして、「災害の防止法を科学的に研究しなければならない」ことに賛同しながらも、忘れてはならないことをくりかえし唱えていた。
昔は「地を相(そう)する」という術があったが明治大正の間にこの術が見失われてしまったようである。颱風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に颱風も地震も消失するかのような錯覚に捕われたのではないかと思われるくらいに綺麗に颱風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。
このように建築法は進んでも、それでもまだ地を相することの必要は決して消滅しないであろう
地を相するというのは畢竟(ひっきょう)自然の威力を畏(おそ)れ、その命令に逆らわないようにするための用意である。
80年後の今、この警鐘をどう受けとめたらいいのだろう。
▼防災気象情報の研究も80年前にくらべれば隔世の感があるだろう。
今も刻々と人々の努力は続いているのである。それは確かである。
しかし、寅彦の警鐘を「それは昔のこと」とかたづけてしまってならない。
もっと直接にどきっとすることを書いていた。
「これから」を考えるとき「教育」に着目することは今も、昔もかわらない。
「理科教育」について次のように言っていた。
しかし大体において学校の普通教育ないし中等教育の方法に重大な欠陥があるためであろうと想像される。これに限ったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型にはいって分りやすいことをわざわざ分りにくく、面白いことをわざわざ鹿爪(しかつめ)らしく教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直観の力を利用しないで頭の悪い大人に適合するような教案ばかりを練り過ぎるのではないかと思われる節もある。これについては教育者の深い反省を促したいと思っている次第である。
「それは違う!」と反駁したい。
しかし、即座にそれができない自分が少しなさけない。
でもあきらめたくはない!!
゜
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