本日(2014/05/07)、第65回オンライン「寅の日」!! #traday
▼昨日で「ホシノヒトミ」が花を落として(2/25)からちょうど10週目だった。
私の主張はこうだった。
図鑑・教科書には「オオイヌノフグリ」とある植物を
花の咲いているときは「ホシノヒトミ」!!
実をつけたときはじめて「オオイヌノフグリ」!!
と呼ぼう。
あれから10週間観察をつづけてみた。これは実感をともなった主張になった。しかし、私はここで観察を終えたくなかった。観察第2ラウンドに挑戦してみたくなったのだ。
次なるテーマはこうだった。
「これは本当に種子か?」「種子ならば蒔けば発芽するのではないか?」
知る人にとってはとても馬鹿げたことなのかも知れない。未知なる私にとっては、これが「科学」だった。
▼そんな「科学」を寅彦が応援してくれているように思った。
今日(2014/05/07)は、そんな寅彦を読む日、オンライン「寅の日」だ。
5月のテーマは、今さらであるが
・「科学者」とは
・「科学」とは
・「科学的研究」とは
を寅彦に聞いてみたいと思う。
▼ここまで、2年一ヶ月 64回、数々の寅彦の作品を読んできたが、そのなかでも今回の「科学者とあたま」は私の一番のお気に入りである。
「科学」を語るときには、よく引用もさせてもらってきた。何度読み返しても教えられること多い。
常に今日的である。
「科学者」「科学」「科学研究」等が茶の間の話題になることの多い昨今、これを読んでみるのも面白いかも知れない。
「科学者はあたまが悪くなくてはならない」と、なんともうれしいことを言ってくれていた。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。
もうこれだけでも、寅彦の大ファンになってしまう。
そして
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸(しがい)の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。
とまで言われると、いつの間にやら自分も「頭のわるい科学者」のひとりになったような気分になるから不思議だ。
▼寅彦の魅力はここでとどまらないことだった。
常に「これから」に示唆を与えてくれていた。この文にかぎらず、常にそうだった。
人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子(こうし)のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子(ろうし)やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉(ばしょう)や広重(ひろしげ)の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。
「頭がいい」ことを自認する若い科学者、科学者の卵のかたにもぜひぜひ読んで欲しい一文であるである。
オンライン「寅の日」のあらたな展開を期待している。
年齢や立場がちがえば、また別の読み解きもあるだろう。それを聞いてみたい!!
今朝から、奇妙なものを観察している。
思わず、「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」と言いたくなってきている。
それはまた明日…。
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