本日、第8回オンライン「寅の日」!! #traday

▼昨日の夕方、一日遅れることになってしまったが、第7大賀ハスの花の観察のあとの処理をした。とは言ってもシロウトの私がやることだ。ほんとうの科学者からすれば拙いママゴトのようなことだ。昨年度からやっていることだ。まずは花びらを黒い紙のうえで勢揃いさせる、写真を撮る。そしてパックに入れて冷蔵庫の冷凍室へ。(退去命令が出ている(^_^;))
次に雄しべだ、これはあの「タンポポの研究」の舌状花の数を数える方法にヒントを得て、10ずつならべてセロテープで貼りつけていく。なんとも単純で地味な方法だ。「多くの雄しべ…」ですませるのでない、作業つづけるなかで大賀ハスの生命を繋ぐ執念のようなものを感じ取っていく。今回は193の雄しべがあった。
▼こんな作業をしていると寅彦の次のような言葉が妙にうれしくなるのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)なければならない。
いつも無手勝流で、何に関しても興味はあるがものわかり悪いシロウトの私のような人間には、これが力強いエールに聞こえてくるである。
こんな「科学者はあたまが悪くなければならない」というパラドキシカルな提言は、「科学者とあたま」のなかにある。これが、第8回オンライン「寅の日」で読む寅彦の文章である。
▼私は以前からこの文章がとても好きだ。
いつも「あたまの悪さ」で苦しんでいる私などには、自分にかわって「頭の良い人に」言い返してくれたよう痛快な気分になるのである。たとえばこんな調子だ。
頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
それだけではない。寅彦はいつも、ではどうするかを示唆してくれていた。
自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉とびらを開いて見せるからである。
さらにこう言いきる。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である
▼しかし、さすが寅彦である。そうそう一方的な指摘だけには終わらせない、そこがホンモノの科学者たる所以であろう。
しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
最後の文章はさらに示唆的である。
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。
80年前の寅彦の「挑発」を、21世紀の「科学者」を自認する人たちはどう受け取るのだろう。
あなたはどう読むのだろう。
私はどう読むのだろう。
今日、オンライン「寅の日」もう一度読んでみよう。

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