サイエンスコミュニケーター宣言(39)
▼今日は七夕だ。しかし、朝から雨だ。実は、今日7月7日が七夕と言われてもピッントこない。小さい頃からずっと田舎で生活してきたから、七夕は8月7日なんだ。竹笹をきってきて縁側でカボチャやなすび、キュウリを供えてと言うのは夏休み前半が終わるころだったのである。7月7日は「まちの七夕」さんなんだ。
いつから「まち」にあわせるようになってしまったんだろう。この雨、夕方までにあがるかな。
▼昨日も、帰ったら、「あいつ」を見に行った。花茎のびはスピードダウンをしているような気がする。水面から花茎の長さを測るようにしていたのは、失敗だったと気づくが今さら変えない。35㎝をこえていた。周りの立ち葉の成長がこれまたすごい。この花のためには、それだけ「生産」が必要なんだろうか。
花蕾自体は、ふっくらと膨らんできている感じがする。花弁がはっきりとかたちになろうとしてきている。
▼昨日きめた作業を続けようと思う。
「私の科学」のあぶり出し作業である。はじめてみるとすぐ気づいた。これが、とてつもなく遠大なる作業であることに。でも、いつかはやりたい作業だったのだから、少しずつ少しずつ…。
まず、「常民の科学」からいこう。
「常民の科学を授業に」は私のライフワークである。
なんてたいそうなことをいったいいつの頃から、言い出したのだろう。また、なぜそんなこと言い出したのだろう。
Webに残っているものに目を通してみる。
●『常民の科学』を授業に!!(1988.2)
1988年2月に発表しているということは、実際に文を書いたのは1987年の末だろう。
今読みかえして、少し恥ずかしい。
思い入ればかりが先行して、乱暴な文章だ。しかし、私の「文脈」のなかでは、今も続いている。
驚くほど変化がない。進歩がないと言った方がいいのかも知れない。
▼この文章でも、触れている「紅花」を追っての文章も残っているのであわせて見てみる。
●紅花を追って (1)「山形・最上」編(1986.8.5)
●紅花を追って (2)「京都」編(1986.8.6)
「常民の科学」を言い出した背景が少しずつみえてくる。
さらに「日本理科教育史」の「年表」から時代背景をピックアップしてみる。
◆1986.4.26 ソ連チェルノブイリ原発事故発生。
◆1987.12.△ 利根川進、ノーベル医学生理学賞を受賞
◆1988.5.15 愛知・岐阜物理サークル編著『いきいき物理わくわく実験』新生出版刊。
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