【授業】「天気コトワザ」をどうする。
▼「雲見」以来、「空ばっかり病」にかかっている。なんでも、すぐ「ばっかり病」にかかる。
どうやら、それが私の持病らしい。この病は、ときには一点突破ですごい世界が見えてきたりしてうれしい。一方の病の弊害もある。その第一は、プライオリティがみえなくなるということだ。ものごとをとりあえずならべてみる、ならべてみるときの座標軸は「時間」である。そして、優先順位をつけていく。そのときの判断を曇らせる。それが「ばっかり病」のまずいところ。何置いても、「○○ばっかり」になってしまうのである。
▼昨日、定例の朝の校庭を散歩していて気づいた。いたるところに「ホシノヒトミ」(オオイヌノフグリの別名・というよりこの時期の呼び名は、私はこちらが本名だと思っている)が広がっているのだ、ホトケノザの赤・ピンクとのコントラストが鮮やかである。木々の芽には緑が復活してきている。まさに地上には、「春」がやってきているのだ。
そして、卒業のシーズンである。
明日、11日は、卒業式である。
学校の最大の儀式。
こんなとき、やっぱり気になるのは「お天気」。さてどうなるのだろう。
学んできたものを使ってみたいものだ。
▼授業の全体構成も一考の必要がありそうだと感じてきているところだ。
残された時間のなかで、ずっと宿題・課題としてきたものに「天気コトワザ」がある。
これをどうするか。
これまでも、<常民の科学>の一典型として、「天気コトワザ」を考えてきた。
どうしても授業に位置づけたいもののひとつである。生徒たちに教えられるようなかたちで、Webの時代であることに気づいた今。でもなおかつこだわりたい。
ここに、込められた「教育の原点」をどうしても具現化したい。
▼もう一度、冬休みの課題をひっぱりだしてくる。
【天気の変化】の学習の前に、宿題にしていたものだ。今なら、あげているコトワザの意味がわかるようになってきているだろうか。「うまく言ったもの!」と感動してくれるだろうか。
Webの時代においても、「明日の天気は…?」のときは、これが有効にはたらくのである。
有効にはたらくものだけが、今も生き残っているのである。
庄司和晃先生が、コトワザの研究に向かわれたのもわかるような気がする。
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