新・私の教材試論(24)

Dscf0092▼昨日は、朝からほんと天気がよかった。朝の空は高かった。もうすっかり秋とよんでいいような一日だった。雲のない空を見上げての「雲見」も久しぶりのような気がした。
それにしても、この青空というのはいいな。空というのは、こんな色をしているのか。これが50㎞つづくのか。その向こうには…。と思っている「飛行機」だ。すごく近く(!?)を飛んでいるような気がする。これで、10㎞、10000メートルか。と自分のたつ空間を少し立体的にイメージしてみたりする。
それも、この青空故か。
▼もう、今日から授業が再開だ。頭を夏休みバージョンから、授業準拠バージョンに切り替えていかねば…。
そこで「新・私の教材試論」である。一応(23)までで一区切りを先日つけたところである。
そこで、今日は、「ふりだし」にもどって、すぐれた教材の法則
「3Hの法則」
・ホットのH…世間で話題になっているもの
・本質的のH
・ホンモノのH

のことから続ける。
▼具体例は、ふたつである。
ひとつは「iPS細胞」、もうひとつは「ウイルス」である。
いずれもが、今新聞の一面をかざるような話題である。これが、なんですぐれた教材なのか。
それを理解するためには、もっともっと基礎的なことを理解する必要があるだろう。妥当な考えである。
その理解のための基礎的な教材こそが、すぐれた教材だろう。それも言える。
 しかし、私はそればかりをとらない。
生徒たち、学習者たちは、このことがトップニュースになる世間のなかで現在進行形で生きているのだ。
 この話題のことと自分が今現在学ぼうとしていることときわめて密接に結びついていることを知れば、学びのモチベーションも変わってくるというものだ。
▼私は、この夏休みのあいだに、昨年の11月14日に偶然であったいきもの(生徒が「発見」してくれたのだが)=コウガイビルから、「iPS細胞」とはなになのか。その概要を教えられた。
コウガイビルの「ふしぎ!?」、261日間の不思議が「iPS細胞」につながっていたのだ。
このつながりが、やっぱり感動なんである。
そうなんだ、「話題」ことと「学習」とは必ずつながっている。そのつながりを「発見」させてくれるものこそ、すぐれた教材と言えるのだ。
 そのとき、徹底して自分の等身大の「ふしぎ!?」にこだわることが大切と実感した。
▼もうひとつ、今のトップニュースが「ウイルス」である。学校が再開されて「新型インフルエンザ」の集団感染が危惧されている。
 私は、一学期に、学校閉鎖明けに「そもそも「ウイルス」とは?」の授業をやった。自分自身が未消化のままで、十分授業と言えるものではなかった。しかし、このこととは関係なしに、「それはそれで」の理科の授業なんかかんがえられなかったのだ。
 今は、【細胞と生殖】の授業をすすめている。再び「つながり」をどのように教材化しようかと思案しているところだ。
 さあ、今日から授業再開!!
 

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新・私の教材試論(23)

Dscf9503▼青空と白い雲、なんと美しいものだ!!昨日、つくづくそう思った。これが、空なんだと思った。そしたら、もう校庭をトンボがとびはじめていた。トンボたちと一緒にしばし、「雲見」を楽しんだ。
季節は間違いなく移ろいゆく。空もまちがいなく移ろいゆく。この世に移ろいゆかないものなどないのかも知れない。
▼試論(1)~試論(22)をプリントアウトしてみた。まず、量に圧倒された、えっこんなにたくさん書いたのか!!
なかみも読み始めた。さらに驚いた。「こんなこと書いたかな?(゚_。)?(。_゚)?」
やっぱりそうだ。もう「他人」になっている!!
 同じようなことを繰り返し、繰り返し書いている部分もある。単なるおもいつきのメモもある。
書いたときにやっていた【授業】も、どんどん変わっている。でも同じことに「こだわり」も示している。
 黄色のマーカーで、チェックしてみた。チェックしたものをプロットしてみる。

◆新・私の教材試論(1)~(22)より
(1) 授業づくりの中心になる「教材」。授業そのものの成否を決定づける「教材」。
(2) 教師の世界観・自然観の現れでもある「教材」
(3) Webが教えてくれた。<小さな試み>も つなげば世界大になると。   
(4) 3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則
(5) 3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則
(6) 「センス・オブ・ワンダー」と「センス・オブ・エデュケーション」が交叉するところに「教材」がある。
(7) 大いなるヒントが古今東西の科学史・技術史のなかに埋もれているのではないか。
(8) そも、そもどんなプロセスを経て、科学的な認識が形成されていくのだろう。
(9) この教材史。教材開発史に、大いに学ぶべきものがあるのではないか。
(10) 「教材」あるのではない。「仕上げるんだ」とは すごい!!
(11) 教材入手情報をWebで…
(12) 教材はホームセンターにある。
(13) 教材は「横」=「水平方向」に流れるもの
(14) 私が、ここで語ろうとしている「教材」とは、自分が授業するときにぜひとも必要とする「教材」「教材素材」。
    ようするに「わがまま」なんだ。
(15) 「ロングテール」の時代だ。小さな「わがまま」がつながる可能性がある時代なんだ。
(16) 教材は授業のなかで生まれ、授業によって進化する。例「究極のマグデブルク半球」「簡単熱気球」
(17) すぐれた教材は、生産と労働の現場にある。
(18) 生産と労働の現場の「窓口」が、ホームセンターなのである。ホームセンターは、教材の宝庫だ。
(19) ホンモノ教材は、突然、偶然!!現れる。 「コウガイビル」
(20) 「ばっかり」徹底すると、そこからいろなものへの「つながり」も見えてくる。
(21) 理科教育史は「教材」の歴史そのものである。
(22) 「教材」の起源を今一度ふりかえる「作業」は重要な意味をもつのである。
(23) 教材にも不易と流行がある。
(24) 「ガラクタ」であるかどうかは誰が決めるのか。それは現場である。
(25) 『情報は発信するところに集まる』は、今なお生きている鉄則!!
(26) 「日本の理科教育史」が面白い!!
(27) 「理科」の面白いところは、モノがあるということである。かたちあるモノとして残っているのである。
(28) 教材ひとつひとつに歴史がある。それは理科教師の思い入れの歴史でもある。
(29) すぐれた「おもちゃ」は、すぐれた「教材」への可能性を孕んでいる。
(30) すぐれた「教材」の開発のためには、おもちゃの世界に学ぶべきだ。

▼以上30をピックアップしてみた。「思いつき」「気づき」「誤った思い込み」等々のオンパレードである。
これは、現在進行形の「試論」であるから、それでいい。
いや、「それでいい」ではなくて、「それでしかない!!」のだ。それ以上でも、それ以下でもない。
この後、どう続けるのか。続くのか。私にも見えていない。
とりあえず、もうしばらく反芻作業を繰り返してみよう。

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新・私の教材試論(22)

▼お盆で、気持ちにゆとりがあるときに、「仕事」の整理をしている。
例のあの方式でだ。「空間の整理」→「情報の整理」→「思考の整理」とやる方式である。ひとつの仕事が浮かび上がってきた。それは、この「新・教材試論」の中間報告である。
 誰に報告するのか。明日の自分にである。
 そう、「明日の自分」は他人だ。
「時間たてば他人とおなじ」「記憶せずに記録する」は、『知的生産の技術』のなかで梅棹忠夫さんが言った言葉だ。実にみごとな指摘である。
▼この試論を私は、ずいぶん長いあいだ書いてきたように思っていたが、最初試論(1)を書いたのは、昨年の10月18日である。だから一年も経過していないのである。やっぱり「記憶」なんていい加減なものだ(^^ゞポリポリ
 「整理」が必要なほど、たくさんの情報を発信しているわけではないはず。それも「記憶」から行くと。
▼私は、この展開をけっこう気に入っている。一時は「私の授業論」「私の教材論」を書きたいと思った時期もあった。しかし、なかなか書けなかった。なぜか、その時間が確保できなかったこともあるが、もっと肝心のことがある。それは、授業をやっていなかったからだ。
 ところが、昨年度から理科の授業を再開した。
 「教材論」が切実な問題となった。明日の授業をつくるための「教材論」、いやそんなたいそうなものでなくていい、「教材」を見る視点のようなもの、即使える「法則」のようなもの。
そんなところから、これをはじめた。
▼はじめてみると、これまでの「教材開発史」や、先達の「教材論」にも出会えたり、「発見」したりして、とても面白い。
これは、あくまで「試論」「覚え書き」である。
 これからも、「授業」やる限りは続けてみようと思っている。(それも期間限定になってきたが)それを今の時期に「中間報告」をするのは、これまでに自分が発信してきたことを元にして、これからの「教材」を考えてみる「きっかけ」にしてみようということである。
いつも、ゆっくりな私の反芻作業である。
今日は、試論(1)からこの試論(22)までをプリントアウトしてならべてみることにする。

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新・私の教材試論(21)

▼暑い(¨;)!夜だった。クーラーはもちろん、まだ扇風機すら出してきていない私の部屋では寝苦しかった。
「マイ気象台」で、今 28.4℃である。おお、今年も「日本の夏」がやってきた。季節がめぐっても、かわらず少し「こだわり」を持ち続けていることがある。そのひとつが「新・私の教材試論」である。
授業をやりながら、教材にふれ、気づいたこと、思いつき、「論」などというたいそうなものにはいたらない些細なこと、それらを気の向くままとぎれとぎれに書き綴る。それにこだわっている。
Dscf3181▼今、【運動とエネルギー】の授業をやりながら、「おもちゃ」の世界がすごく面白いと思いはじめている。
翻って考えてみるに、30数年にわたる現場で授業をやりながら、多くのすぐれた「教材」と出会ってきて、それが
「おもちゃの世界」発というものが多いことに、今さらのごとく驚くのである。
それは、アタリマエのことだ。
 「おもちゃ」がめざすものと「教材」がめざすものが一致したところが多い、そこに起因している。
▼この「試論」のはじめに、我流の二つの法則をつくっていた。(参照 私の教材試論(2)
■3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則
■3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則

である。
自画自賛する。みごとではないか。ピッタリとあてはまるではないか。
すぐれた「おもちゃ」に。
▼蛇足ぎみになるが、少しつづけよう。「感動」のないおもちゃなんてあるだろうか。はじめに「感動」があってこそ、初期の目的達成ができるのである。「簡単」もそうである、複雑に手の込んだものが、すぐれているように一見 見えるかも知れないが、それはちがう。ほんとうにすぐれた「おもちゃ」、永く子どもたちに愛される「おもちゃ」はシンプルである。シンプルであるからこそ、繰り返し「感動」がある。「きれい」「安全」についても、くどくど言うに及ばない。
▼最近の授業から、具体例をあげてみると、『逆立ちごま』である。
3K1Aの法則だけでない。3Hの法則も充分に満足しているのである、「逆立ちゴマ」の科学は、科学の本質をついているのである。逆立ちゴマの「ふしぎ!?」は、科学の「ふしぎ!?」そのものなんだ。
▼この一致はなにを意味するのか。
すぐれた「おもちゃ」は、すぐれた「教材」への可能性を孕んでいる。ということであり、
すぐれた「教材」の開発のためには、おもちゃの世界に学ぶべきだ。
というこどだろう。
 機会あるごとに、おもちゃ屋さんに行こう。(^^)V

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新・私の教材試論(20)

Dscf2802▼昨日は、雨が恨めしい日だった。一年生が校外学習に校区を歩く日だったのである。また二年生はトライやる・ウィークの最終日でもあった。だから「雨」が恨めしい。できれば晴れて欲しかった。
 空を見あげたら、どんどん雲が発生していた。しかし、考え方によってはこれも含めての「自然」なんである。こちらの都合だけでつき合っていくことはできない。自然を豊かにとらえるとか、自然に学ぶというのは、こんなのすべてをひっくるめてのことなんだろう。雨の季節がやってくる。雨がどんなはたらきをしているのか。雨とどうつきあうのか。雨を科学するチャンス到来でもある。
「雲家族10のうた」を思いだした。
ケンケン三兄弟に(巻雲 巻層雲 巻積雲)
コウコウ姉妹 (高層雲 高積雲)
ソウセキ(層積雲) はなれても りっぱに ソウ! セキ! (層雲 積雲)
雨 雨 ふれ ふれ ラン!ラン! (乱層雲 積乱雲) 

▼授業【運動とエネルギー】も、ちょっと一息である。
次なる実験を考えながら、ここまでで、ちょっととぎれている『新・私の教材試論』を書きたくなってきた。
最近、「理科教育史が面白い!!」と思うようになった。以前から興味はあったが、特に新しい授業づくりを意識してやるようになってなおさらである。
▼「理科」の面白いところは、モノのがあるということである。モノとはなにか。
それは、教材・教具である。それが、かたちあるモノとして残っているのである。それがまた面白い。
他の教科にもそれはあるかも知れないが、とりわけ「理科」ではそれが顕著であるのだ。
Dscf2718▼古めかしい「記録タイマー」を準備室の棚にみつけた。さらには「斜面」の実験器具をみつけた。
班の数はもう残っていない。どんな実験をしたんだろう。学習指導要領の何度かの改訂でもう用なしになってしまったのだろう。その「斜面」を見ていると、そのころの授業が想像できる。
理科教育の変遷がたどれる。この器具で、どんな「なるほど」という納得が引き出せたのだろう。
「ふしぎ!?」は豊かにふくらんだだろうか。
▼実験器具だけではない。教科書に「定番」として生き残る実験・観察ひとつひとつがそうである。そこには、「日本の理科教育史」を色濃く反映して、そこにあるのである。
 教材ひとつひとつに歴史がある。それは理科教師の思い入れの歴史でもある。
 悪戦苦闘の授業をつづけながら並行して、このひとつひとつの実験・観察、教具、実験器具・道具のルーツを訪ねる旅に出たいと思う。果てしない旅になるだろう。でもそれは、理科教師にとってこれ以上のない面白い旅だろうと予感できる。

 

 アメバ、アメナテ
 カゼバ、カゼナテ
 ダレ、ツケタンダベナ
 イチバンハヤク、ダレツケタンダベナ。
 (「新しい綴り方教室」国分一太郎・新評論)
 

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新・私の教材試論(19)

Dscf1936▼長いと期待していた連休も終わってしまった。連休最終日の昨日の朝、ずっと曇り空をつくっていた雨がついにふった。そんなに長くはなかったが…。それが、大賀ハスを洗ってくれた。ちょっと「元気ないかな」と見えた大賀ハスが新鮮なみどりを取り返してくれた。同時に水面の油面のような膜は消えた。
あれは、いったいなんだったのだろう。元祖の阪本さんのアドバイスを受けて、固形の有機肥料を購入してきた。
油かす+骨粉のものを購入した。骨粉のリン酸を好むとはネットの情報だ。出かけてしまったので後日昼間いるときになるだろう。澄んできた水面にボウフラが活発に活躍している。もう完全に「ひとつの世界」ができてしまったようだ。
▼そうだなと思ったときに、書き綴っておこう。つながりのないことになってしまうが、それはあくまで「試論」だからといいわけしておいて。
 教科書をみながら、それぞれの実験・観察の起源をみるということを繰り返していると、
◆教材にも不易と流行がある。ことに気づく。
 さらには「定番」となっているものについては、それなりの訳があるように思う。多くの授業のフィルターをかけても、生き残ったのだから、当然、それなりの「すばらしさ」がある。
 しかし、どうしても訳がわからない「ガラクタ教材」も生き残っていることもある。
▼「ガラクタ」であるかどうかは誰が決めるのか。
それは、現場である。つまり、それを「教材」として学ぶ生徒と、それを持ち込む教師である。いよいよその時代が到来したのである。
 そこで思い出すのが、何度も引用させてもらっている森山和道さんの『ネットワークと教育』(もう15年近く前に書かれたもの、まずそれに驚く)のなかにある、次の一文だ。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。

 ここでの「授業データベース」は、「教材データベース」と読み替えてもいいだろう。15年前のこの「可能性」の提言は、より現実味をおびてきている。しかし「可能性」は、現実ではない、あくまで「可能性」である。
▼現状はどうか。自分が教室に持ち込もうと「教材」をキーワードを指定してググってみればいい。すぐわかることだ、たいへんな時代になったものである。この時代の渦中にあることを知ることは、これからの教材研究ではじめになすことだろう。
 次になすべきことは、何か。
 これまでの教材史が教えてくれている。
「すぐれた教材は授業で生まれ、授業で進化する。」  のだ、だから自分の授業での事実を情報発信しよう。
『情報は発信するところに集まる』は今なお生きている鉄則!!


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新・私の教材試論(18)

▼ほんと久しぶりに「ゆとり」の時間できた。そうすると少しふりかえってみる余裕がでてきた。
ここ数年、こんなときには必ずと言っていいほど思考が向かうところがある。
それは「整理」ということについてだ。私は、これまでの繰り返しの「失敗」と「挫折」から、ひとつの結論に達していたはず。
▼その結論を教えてくれたのは『佐藤可士和の超整理術』だった。ここに究極があると思った。
「整理のプロセス」をコピーして、それを眺めることから「仕事」をはじめるようにしたのは、ごく最近のような気がするが、それから一年が経過したようだ。
その一年前をふりかえるに、このblogで「2008年5月」を見てみた。
やっぱり便利だ。ここまで書き綴ってくると、こんな便利なものはない。いつでもどこでも綴られた「過去」にもどることができる。思考まで…。
去年の連休にもやっぱり同じようなこと考えていたんだ。
▼やっぱり続けておこう。私は、今二つの「試論」を続けている。「新・私の教材試論」「新・「自由研究」のすすめ試論」である。
いずれも、気ままに思いついたときに、書き続けていこうと思っているものだ。
「新・私の教材試論」の方は、期間限定で書きつづれるところまで綴るつもりだ。
▼「ピースピ」や「記録タイマー」の歴史をふりかえっているあいだに、教材について思うこと・気づくことがあった。目新しいことではないが、書き記しておく。
◆理科教育史は「教材」の歴史そのものである。
そんなことアタリマエのことで、多くの人が語ってきたことだ。
科学史と科学教育史が分かちがたく関連していることは、多くの人が認めるところでもある。「科学教育」つまり「理科教育」(ここの読み替えもこう単純でいいのかは疑問だが ソノハナシハ\(^^\) (/^^)/コッチニオイトイテ)にとって「科学史」に学ぶことの大切さは、多くの先達が強調してきた通りだ。
今なお、共感もできる、これからもそうだと思う。
▼移行期だ!!何十年ぶりかに、「理科」が「教室」にもどって来ようとする時代だ。
そんな時だからこそ、このアタリマエを今一度確認しておこう。
現行の教科書に記載されている「教材」ひとつひとつにも「歴史」があるのである。その「歴史」こそが、日本の理科教育史なんである。
 これからの教材開発のためにも、さらには未来の理科教育のためにも、
「教材」の起源を今一度をふりかえる「作業」は重要な意味をもつのである。
できれば、これを多くの人との「共同作業」としてやりたい。と強く思うのである。

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新・私の教材試論(17)

Dscf0965▼雨がやんで広がる青空。そして、サクラはその青空に似合いのように、刻々とスペースを占めていく。
コマ落としの動画でも見ているように、風景がかわっていく。
そのなかで、新しい年度がスタートした。
▼「試論」つづける。ひとつのネタにこだわりはじめると、「ばっかり」になってしまうのが、私のやり方のようだ。
「ばっかり」に徹底すると、そこからいろんなものへの「つながり」も見えてくる。
あらたな「ふしぎ!?」も生まれてくる。
それは、まるで熊楠の「萃点」のようなものである。
そうして、教材化を志向しながら、まだできていないものが、たくさんある。「宿題」になったままのものである。
▼そのなかでも、やっぱりこの「コウガイビル」というやつは超一級だ。
「なぜ、食べないのに生命活動を停止しないのか」
「いや、実は食べているのではないか。自分自身を」
「どのようにして、最期をむかえるのであろうか」
「これは偶然に起こっていることなんだろうか、それともこの種類の生き物全てに起こっているのだろうか。」
「こいつの細胞レベルでの活動は…」
「さらには分子レベルでの活動は…」
そして、そしてついには、こいつに聞いてみたい「生命とは(・_・)......ン?」
▼前回の資料を公開してくださっている佐々木玄祐先生に突然で失礼とは思いながらもメールでお尋ねした。
やっぱり、さすがホンモノだ。うれしいことに応答メールをいただいた。
「低酸素で代謝が落ちていて、水があれば…」
「4ヶ月以上とはかなり長いですね。」
「今後とも観察を続けられたら、…」
の言葉をいただいた。やっぱりもう少しつづけよう。観察を。
▼「3K1Aの法則」「3Hの法則」との関係も、もうすこし明らかにしながら

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新・私の教材試論(16)

Dscf0947▼新しい年度のはじまりである。2009年度のスタートの季節(とき)だ。
ほんとうの時間は連続しているし、等速運動である。だから、昨日までともなにも変わらないのだ。
なんとなくこんなコトバを発してみたくなった。
「過去と他人は変えることできないが、未来と自分は変えることができる
昨日、仕事のあいまに「あじさい公園」に、山桜を見にでかけた。といっても、数分の散策である。
「観察池」の春も見に行ったのだ。「観察池」から、ちょっと空をみあげた。すばらしい風景にであった。
白木蓮だ。
こんな風景をはじめてみた。青い空、白木蓮の林。
サクラとは、またちがった絶景である。
連続する、変わらない時間のなかに、「発見」は、今年度もつづくだろう。
うれしいかぎりだ。
Dscf0923▼「コウガイビル」の不思議で、「試論」もつないでいこう。
ダーウィンの引用文の最後が、気になる

生活現象が終われば、一般に見る天然の変化の法則がここにも働いて、体は全体に柔らかくなり、液化する。そのはやさは、他に比べるものもないほどである。(「ピーグル号航海記 上」P54より)

これがわが「コウガイビル」くんの未来であろうか。
そうすると、やがて、このナイロン袋から消えるのだろうか。
それは、いつやってくるのだろうか。
このナイロン袋のなかの緑っぽい物質はなんなのだろう。
ウンチのようにみえる「破片」の物質はなんだろう。
なにもエサを与えられなかった彼は、「自分を食べて生きている」そんな仮説は成り立つのだろうか。まだまだ不思議はつづくのである。
Dscf0918▼こんな不思議を人々はほっておいただろうか。きっとこれまでにも気づいたはず。
やっぱりあった!!昔の人も、この奇妙な「生きもの」についての記録を残しているのだ。
ありがたい時代だ、それは大学の図書館にまで出かけて行かなくても閲覧させてもらえるのだ。
◆本草書の中のコウガイビル
 すばらしい、貴重な資料の公開である。公開しておられる佐々木先生に大いなる敬意を表すると同時に深く深く感謝したい。シロウト研究をして、「ふしぎ!?」探検をする人間にとってどれほどうれしいことか、このような取り組みが。これからの万人の「学び」が、このような方向をなることを切に願いたい。


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新・私の教材試論(15)

Dscf0883▼花冷えがつづく。どんどんサクラが開花していっているというのに。
昨日の朝は、なんと植えかえをすませた「大賀ハス」のプールにも、薄氷がはっていた。そこから、ニョキッと顔をだす葉芽に思わず、「がんばれ!」と声をかけてしまった。はたして、どんな葉に成長するだろうか。
大賀先生のときのように、花にまで成長する「奇跡」はおこるだろうか。
▼本年度最後の日。あいかわらず、私は方向も定まらぬ「試論」をつづけよう。
「コウガイビル」の話だ。はたして、教材化は可能か。進行形で書きとどめていこう。
まだ、健在である。したがってあの「ふしぎ!?」は続いている。こんな不思議なこと、誰かが気づき研究しているのではないか。きっと…。ネットや手持ちの書籍で調べてみた。
▼やっぱり、あった!!。なんとそれは、あのチャールズ・ダーウィーンだ。書いてくれているだけで感激だ。
書いているのは例の『ビーグル航海記上』(岩波文庫 1977.10.10第21刷)だ。
全三冊を揃えて持っていた。あんまりきっちりと読んだ記憶はない。こんなところで役に立つとは…
ダーウィンが、コウガイビル(陸生プラナリア)のことについて書いているのは次の文だ。
 少し長くなるが引用させてもらう。

私は、南半球の各地で、陸生のプラナリアを十二種以上見た。ブァン ディーメンス ランド Van Dimen's Land
で得た若干の標本には、朽木を食わせて、約二ヶ月も生存をつづけさせた。一匹のプラナリアをだいたい相等しい大きさに横断すると、二週間のうちに双方とも完全な体となった。更に、片方が下面に開口を二つとも持ち、従って他の方は開口を一つも持たぬように切ってみた。施術後25日を経て、比較的完全に近かった方は、普通の標本と区別できぬまでになった。片方もその形がいちじるしく大きくなり、そして後端に近く柔らかい細胞集団のうちに透明な空間を生じ、その中には椀のような形の口の原基が明らかに認められた。しかし下面に裂口が開くには到らなかった。赤道に近づいたために、気温の上昇によって、すべての個体を殺すようなことがなかったならば、この最後の段階も構造を完成したに違いない。この実験はすでによく知られているところであるが、一方の個体の簡単な体の一端から、必須の器官がことごとく次ぎ次ぎに生ずるのを見るのは面白かった。プラナリア類を飼うのは極めてむずかしい。生活現象が終われば、一般に見る天然の変化の法則がここにも働いて、体は全体に柔らかくなり、液化する。そのはやさは、他に比べるものもないほどである。(「ピーグル号航海記 上」P54より)

▼長々と引用させてもらったのは、ここに「コウガイビル」の不思議を解くヒントがいっぱい書かれているように思ったからだ。再生実験のことが書かれている。これは、教材化へのヒントでもある。

つづく

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