本日(2020/07/10)、第258回オンライン「寅の日」!!#藤の実 #traday #寺田寅彦

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▼古びた藤の実の「さや」を拾ってきた。
 机の上にならべてじっくり観察してみると、確かに「ねじれて」いた!!
 私は残念ながら、まだ藤の実の「さや」が「ねじれて」、なかから豆が飛び出す瞬間を目撃したことがなかった。
 状況証拠だけでなく、その「現場」をこの眼で確かめたかった。
 今年こそ!!
▼本日(2020/07/10)は、第258回オンライン「寅の日」である!!
 7月のテーマは、6月に引き続き
 「教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む」
である。
 その1回目の本日は、「藤の実」を読む。

◆本日(2020/07/10)、第258回オンライン「寅の日」!!

「藤の実」(青空文庫より)

▼寅彦が「科学する」の面白さを教えてくれる!!
 それを代表するような作品である。
 これが戦後の教科書にも多く掲載されたというのが納得がいく。
 一夕の偶然の観察は、科学研究論文にまで展開していく。やっぱり寅彦は面白い!!

 書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても五間(けん)はある。それで、地上三メートルの高さから水平に発射されたとして十メートルの距離において地上一メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒十メートル以上の初速をもって発射されたとしなければ勘定が合わない。あの一見枯死しているような豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潜んでいようとはちょっと予想しないことであった。

このように考察するのもさすがだが、ここでとどまらないのが寅彦の面白さ!!

この一夕の偶然の観察が動機となってだんだんこの藤豆(ふじまめ)のはじける機巧を研究してみると、実に驚くべき事実が続々と発見されるのである。しかしこれらの事実については他日適当な機会に適当な場所で報告したいと思う。

▼ さらに話は次へと展開していく。

それはとにかく、このように植物界の現象にもやはり一種の「潮時」とでもいったようなもののあることはこれまでにもたびたび気づいたことであった。

 銀杏の落葉を観察して、こう書いていた。

何かしら目に見えぬ怪物が木々を揺さぶりでもしているか、あるいはどこかでスウィッチを切って電磁石から鉄製の黄葉をいっせいに落下させたとでもいったような感じがするのであった。

 今回、これ読んですぐさま思い出したシーンがあった。
 先日観察したばかりの大賀ハス「あこがれの4日間」の4日目だ!!
 それまでは、猛烈な雨にも風にも耐えていた花ビラ、雄しべは、「そのとき」が来れば、またたくまに落ちたのだった。
 「あこがれの4日間」開閉の機巧の「ふしぎ!?」は、まだまだつづけなければと思うのだった。

 さらには、興味深い提言にまでツナガル。

この現象の生物学的機巧についてはわれわれ物理学の学徒には想像もつかない。しかし葉という物質が枝という物質から脱落する際にはともかくも一種の物理学的の現象が発現している事も確実である。このことはわれわれにいろいろな問題を暗示し、またいろいろの実験的研究を示唆する。もしも植物学者と物理学者と共同して研究することができたら案外おもしろいことにならないとも限らないと思うのである。

 寅彦がこう言ってから、87年!!
 不勉強な私はよく知らないが、いろいろ面白い「研究」があるんだろうな。
 機会があれば、ぜひ知りたいものだ。

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本日(2020/06/28)、第257回オンライン「寅の日」!!#森の絵 #traday #寺田寅彦

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▼昭和26年(1951)3月30日、大賀一郎先生が千葉県千葉市検見川の泥炭層から約二千年前の古蓮の実を三粒を手に入れた。
 これが、「大賀ハス」のそもそものはじまりである。
 昭和10年(1935)12月31日、我らが寺田寅彦は58歳でこの世を去った。
 したがって、寅彦は「大賀ハス」そのもののことを知る由もないのである。
 しかし、ときどき思うことがある。
 
 寅彦の観察眼をもってすれば、「あこがれの4日間」の謎解きもできるのでは!!

 「あこがれの4日間」その三日目の朝も早かった。(4:05)
周到に準備し、埋め込まれた「あこがれの4日間」プログラムは、少しトラブっているのかも知れない!?
 明確に「全開」の時間というのがわからなかった。
 途中でとまってしまったようになって昼をすぎてしまった。
 夕方になって、やっととじはじめた(18:19)

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▼本日(2020/06/28)は、その寅彦を読む第257回オンライン「寅の日」である!!
 6月のテーマは
 「教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む」
である。
 その3回目の本日は、「森の絵」を読む。

◆本日(2020/06/28)、第257回オンライン「寅の日」!!

●「森の絵」(青空文庫より)

▼読み進めるうちにあるひとつのコトバが頭に浮かんできた。
 「原風景」!!
 である。これは、寅彦の「原風景」を語る随筆なのでは!!

 明治四〇年(1907)、寅彦の30歳の作品である。またしても、「ホトトギス」発表の作品だ。
 大正時代の中学校、女学校に掲載された寺田寅彦作品の中では、掲載教科書が一番多い作品なのだそうだ。

 例によって声に出して読んでみる!!

 暖かい縁(えん)に背を丸くして横になる。小枝の先に散り残った枯れ/\の紅葉が目に見えぬ風にふるえ、時に蠅のような小さい虫が小春の日光を浴びて垣根の日陰を斜めに閃く。眩しくなった眼を室内へ移して鴨居(かもい)を見ると、ここにも初冬の「森の絵」の額(がく)が薄ら寒く懸っている。

 いきなりだ。 うまい!!
 ナルホド 景がみごとに浮かんでくるではないか。
▼読み進めるていくうちに、幼き寅彦の「原風景」が鮮やかに浮かんでくる!!
 みごとなものだ!!
 つられて私にとっての「原風景」は!?
 と自問してみたくなるのだった。
 
 いつものことながら、最後がまたまたうまかった!!

 森の絵が引出す記憶には限りがない。竪(たて)一尺横一尺五寸の粗末な額縁の中にはあらゆる幼時の美しい幻が畳み込まれていて、折にふれては画面に浮出る。現世の故郷はうつり変っても画の中に写る二十年の昔はさながらに美しい。外の記憶がうすれて来る程、森の絵の記憶は鮮やかになって来る。

最後の最後がまたたまらない!!

 

他郷に漂浪してもこの絵だけは捨てずに持って来た。額縁も古ぼけ、紙も大分煤(すす)けたようだが、「森の絵」はいつでも新しい。 

私の「森の絵」は…!?
あなたの「森の絵」…!?

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2020年7月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼五月にはみごとな花を見せてくれていた山藤に、若い実がぶらさがっていた。
 この「藤の実」が、やがて冬場になって、乾燥して鞘がねじれて、なかの藤豆がはじけ飛ぶ現象にいたく感動した寅彦は、あの名随筆「藤の実」を書いた。
 さらには、科学論文「藤の種子の自然放散機構について」を発表するところまで追究した。
 こんな寅彦の「こだわり」に感服するのである。
 そして あのコトバを聞く思いになるのである。
 
 「ねえ君、不思議だと思いませんか?」

▼2020年7テー月のオンライン「寅の日」の計画を立てる時期である。
 そこで7月のテーマは、6月に引きつづいて

【7月テーマ】『教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む』

として、前記著書に取り上げられた残りの二作品を読むことにする。
 7月は2回あった。

■2020年月オンライン「寅の日」!!
◆第258回オンライン「寅の日」 …7/10(金)
◆第259回オンライン「寅の日」 …7/22(水)

▼その残りの二作品とは
「藤の実」
・「たぬきの腹つづみ」(ローマ字)
である。
 困ったことに「藤の実」の方は青空文庫にあるが、「たぬきの腹つづみ」(ローマ字)の方は青空文庫にはない。
 ローマ字表記のことも含めて話題にしたいのだが、ここでは無理だ。
 そこで、「たぬきの腹つづみ」の内容にも少しだけ触れてある「化け物の進化」をかわりに読むこととする。

■2020年月オンライン「寅の日」!!

◆第258回オンライン「寅の日」 …7/10(金)「藤の実」(青空文庫より)

◆第259回オンライン「寅の日」 …7/22(水)「化け物の進化」(青空文庫より)

▼6月・7月のオンライン「寅の日」を通してめざすのは、寅彦作品(随筆)のバックグラウンドを知ることにより、より深く寅彦作品を楽しむことである。
 そして、少し欲ばりを言えば「楽しむ」から「愉しむ」へと少しずつシフトしていくことである。
 オンラインであることを最大限に生かして、共に愉しむ、共愉的オンライン「寅の日」をめざしていきたい。

 少しずつ 少しずつ…
 ゆっくり 急ごう!!

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子規庵の糸瓜、今年も…(2020/06/17) #子規庵 #糸瓜

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▼そもそものはじまりは、昨年の5月の子規庵訪問である。そこで5粒の糸瓜の「種子」をおすそ分けしてもらった。
 4粒がうまく発芽して、成長していった。少し遅くなったが、11月21日に収穫した。

●子規庵の糸瓜を収穫した!! #子規 #糸瓜

▼収穫するのも遅れたが、そこから「へちまたわし」と「種子」をとるのもずいぶんおくれて、今年の3月になってからだった。

●子規庵の糸瓜から「へちまたわし」と「種子」を!! (1)(2020/03/11) #子規庵 #糸瓜
●子規庵の糸瓜から「へちまたわし」と「種子」を!! (2)(2020/03/12~/13) #子規庵 #糸瓜

▼膨大な数の「種子」を手に入れたつもりになっていた。
 そのほんの一部を畑に5月23日に蒔いてみた。
 実際に「発芽」してきたのは、限られた黒い「種子」からだけだった!!
 長いあいだ水につけたままにしていたのが失敗だったのだろうか ?(゜_。)?(。_゜)?

 それでも昨年にくらべればたくさんの苗ができた。
 6月8日、それらを植木鉢、プランタン等に植え替え、昨年と同じ壁沿いに置いた。

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▼昨日(2020/06/17)の段階では、はやくもけっこう大きく成長していた。
 そろそろネットの準備をしなければ…。
 さて、今年はどんな展開を見せてくれるだろう。
 今年の糸瓜忌(9/19)にはどうなっているだろう? 

 今年は「へちま水」にも挑戦したいな。
 そして、早めに収穫して、今度は私の方から「子規庵の糸瓜」の「種子」としておすそ分けできるようになりたいな。

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本日(2020/06/16)、第256回オンライン「寅の日」!!#凌霄花 #花物語 #traday #寺田寅彦

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寺田寅彦記念館を出て少しだけ歩いたところ、「花物語」の文学碑が建っている。
 寅彦が少年時代このあたりで遊んだのだろうかと想像しながら、しばしゆっくり時をすごすのは楽しい。
 「土佐の寅彦」詣のとき、時間があれば必ず立ち寄るようにしている。

▼本日(2020/06/16)は、第256回オンライン「寅の日」である。
 6月のテーマは
 「教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む」
である。
 その2回目の本日は、「凌霄花」(「花物語」四)を読む。

◆本日(2020/06/16)、第256回オンライン「寅の日」!!

●「凌霄花」(「花物語」四)(青空文庫より)

▼この作品は、明治四十一年(1908)寺田寅彦31歳のときに書かれたものである。
 まずその若さに驚いてしまう。
 この年の「寺田寅彦 略年譜」(『寺田寅彦』河出書房新社より)を引用させてもらう。

●1908年(明治41) 31歳(数え年)
 七月、大学院卒業。十月、論文「尺八の音響学的研究」で理学博士号取得。十二月、文部省から宇宙物理学研究のため二年間のドイツ、イギリス留学が命じられる。 

 数え年31歳となっているが、寅彦の誕生日は11月28日であるから、十月では、満年齢は30歳である!!
 やっぱり すごく若い!!
 「花物語」は九編の物語からなる。
 30年生きてきて、出会った「花」との物語である。それはみごとに寅彦自身の「履歴」を語る物語となっていた。
 九編は次のとおりである。

一 昼顔
二 月見草
三 栗の花
四 のうせんかずら(凌霄花)
五 芭蕉の花
六 野ばら
七 常山の花(クサギ)
八 りんどう
九 棟(おうち)の花

この九編のうち六編までが、教科書に掲載されたというから、これまた驚きである!!
何故だろう!?

▼その疑問を解きたかった。
 ヒントは発表したのが「ホトトギス」であるというところにあると思っていた。
 夏目漱石が「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表したのが1905年であるから、その3年後ということになる。
 その当時、「ホトトギス」の写生文派の高浜虚子等の人々は、自らの作品を皆の前で読みあったのだそうだ。
 声に出して読み合うことで、心地よいリズム感のある写生文がうまれていったのだろう。
 
 そんなつもりで、今一度「凌霄花」を声に出していま一度読みなおしてみた。

裏の小川には美しい藻(も)が澄んだ水底にうねりを打って揺れている。 その間を小鮒(こぶな)の群れが白い腹を光らせて時々通る。 子供らが丸裸の背や胸に泥(どろ)を塗っては小川へはいってボチャボチャやっている。 付け木の水車を仕掛けているのもあれば、盥船(たらいぶね)に乗って流れて行くのもある。 自分はうらやましい心をおさえて川沿いの岸の草をむしりながら石盤をかかえて先生の家へ急ぐ。
 

座敷の縁側の軒下に投網(とあみ)がつり下げてあって、長押(なげし)のようなものに釣竿(つりざお)がたくさん掛けてある。 何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心持ちが悪い。 頭をおさえて庭を見ると、笠松(かさまつ)の高い幹にはまっかなのうぜんの花が熱そうに咲いている。
 

ナルホド(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
寅彦の文章が写生派の讃辞を受けたというのがわかる気がしてくるのだった。
そして教科書にたくさん掲載されたというのも…。

他の「花物語」も声に出して読んでみたくなってきた。  

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本日(2020/06/04)、第255回オンライン「寅の日」!!#新星 #traday #寺田寅彦

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  好きなもの
  苺 珈琲 花 美人
  懐手 して 宇宙見物
         1934.1.2

 私の究極の道楽は2つ
 賢治の「雲見」
 と
 寅彦の「宇宙見物」
 である。
 その「宇宙見物」というフレーズは、この「懐手 して 宇宙見物」から拝借している。
 「宇宙見物」もお気に入りだが、「懐手 して」というのがなおいっそうお気に入りだ!!

▼本日(2020/06/04)、第255回オンライン「寅の日」である。
 6月のテーマは
 「教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む」
 である。
 同書にとりあげられた5作品を、今回より連続して読んでいく。
 今回は、「新星」(「小さな出来事」四)を読む。

◆本日(2020/06/04)、第255回オンライン「寅の日」!!

●「新星」(「小さな出来事」四)(青空文庫より)

▼今回より同書の著者山田功先生を見習って、作品に直接表れていない背景も意識しながら読み進めたい。
 まずこの作品が発表されたのは、大正九年(1920)十一月である。
 つまり ちょうど 今から100年前!! 寅彦43歳のときである。
 大学にて胃潰瘍で吐血し、二年間の療養期間中に書いたものである。
 同書によれば
 「この作品が初めて教科書に掲載されたのは、大正十二年(1923)である。これは寺田寅彦の作品が掲載された最初でもある。」

 さてなかみに入ろう。
 読み進めるうちに、なぜ教科書に掲載されたのか 納得がいくような気がしてくる。
 100年前 科学者である父が愛する我が子たちに「宇宙見物」の面白さを語る。
 それは今読んでも、たいへん興味深い。

 こんな話よりも子供を喜ばせたのは、新星の光が数十百年の過去のものだという事であった。わが家の先祖の誰かがどこかでどうかしていたと同じ時刻に、遠い遠い宇宙の片隅に突発した事変の報知が、やっと今の世にこの世界に届くという事である。

 この事情は100年たった今も同じかも知れない。
 ここまでで終わらないというのが、寅彦の面白さでもあった。続けてこうだ!!
 

 しかしそう云えばいったいわれらが「現在」と名づけているものが、ただ永劫な時の道程の上に孤立した一点というようなものに過ぎないであろうか。よく考えてみるとそんなに切り離して存在するものとは思われない。つまりは遠い昔から近い過去までのあらゆる出来事にそれぞれの係数を乗じて積分(インテグレート)した総和が眼前に現われているに過ぎないのではあるまいか。

こんな文章を100年前の学生たちは、どのように受けとめたんだろう。
▼まだまだつづいた!!

 新星の出現する機会(チャンス)はきわめて少ない。われわれ素人が星座の点検をする機会もまたはなはだ少ない。従って先ず新星が現われて、それからわれわれがそれを発見するという確率(プロバビリティ)は、二つの小さな分数の相乗積であるから、つまりごく小さいもののまだ小さい分数に過ぎない。
 

さらにつづけて

これに反して毎晩欠かさず空の見張りをしている専門家にとっては、「偶然」はむしろ主に星の出現という事のみにあって、われわれの場合のように星と人とに関する二重の「偶然」ではない。強いて云えば天気の晴曇や日常の支障というような偶然の出来事のために一日早く見付けるかどうかという事が問題になるだけであろう。  この説明は子供には、よく分らないらしかった。

 同書には、教科書に掲載されたときの[学習の手引き]も紹介されていた。
 そのなかに、上記の文章をとりあげ
 「5 次の文の意味をよく分かるように説明してください。」というのがあった。
 今日一日、学生にもどった気分で考えてみようと思う。

 梅雨空があけたら夏空の「宇宙見物」をしながら、この作品を読み返してみたい。

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本日(2020/05/23)、第254回オンライン「寅の日」!!#鉛をかじる虫 #traday #寺田寅彦

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▼寅彦の通っていた高知市立江ノ口小学校には創立百周年記念として制作された寅彦の顕彰碑がある。
 そこから少しだけ離れた場所に「高知地方気象台露場」があった。
 そこには、ウィンドプロファイラまであった。
 日本でいち早く「高層気象観測」の必要性を唱えた寅彦と遠からぬ縁を感じた。
 そこで、ここを私はあらたに「土佐の寅彦」詣の定番スポットとして加えた。
 そして、詣のたびに訪れるようにしている。

 今年の春の「土佐の寅彦」詣は中止になってしまった。
 秋にはぜひとも訪れたいものだ!!

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▼本日(2020/05/23)は、第254回オンライン「寅の日」である。
 5月のテーマは
 【5月テーマ】「寅彦と学問」
 である。その第二弾として、「鉛をかじる虫」を読む。

◆本日(2020/05/23)、第254回オンライン「寅の日」!!

●「鉛をかじる虫」(青空文庫より)

▼変なタイトルのついた文章だ!!
 しかし、いかにも寅彦らしい論理構成で、説得力をもつ!!
 「なぜ、学問をするのか?」いつの時代においても、学ぶ人間にとっては大問題だ。それに寅彦が答える!!

 そのみごとな論理展開のお手並み拝見といこう。

「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。これはいうまでもないことである。しかしそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかもしれないのである。
それにもかかわらず「無駄を伴わない滓(かす)を出さない有益なものは一つもない」という言明は、どうも少なくも一つの作業仮説として試みに使ってみてもいいように思われる。
 
しかしこの仮説が誤りであって「無駄のない有益なものが可能であり、それが当然である」とすると、無駄は罪悪でないまでも不当然であり不都合である。

ここまで言われると思わず「その通り!!」と膝をたたきたくなるのである。
▼最後はアイロニーたっぷりに次のようにまとめる。

 こう考えてみると、道楽息子でもやはり学校へやった方がいいように思われ、分からないむずかしい本でも読んだ方がいいようであり、ろくでもない研究でも、しないよりはした方がいいようにも思われ、またこんな下らない随筆でも書かないよりは書いた方がいいようにも思われてくるのである。

 これはひと言で言えば「無駄のすすめ」である!!
 セレンディピティはいつも唐突に訪れるものである!!
 

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2020年6月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼先日、【お薦め本】にあげた『教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む』(山田功著 リーブル出版)のなかで、著者は次のように語っていた。

 寅彦の作品のアンソロジーは多々出版されているが、丁寧な解説を加えた本は少ない。自由に読めばよいのであるが、できる限りの調査をし、作品に直接表れていない背景を紹介して、それをもとに作品を読んでもらったらどうかと考えた。それは遅々として進まぬ仕事であったが、ようやく代表的五作品をここに紹介することができた。
 寺田寅彦の作品を学校で学んだ方も、学ばなかった方もこれをきっかけに、寺田寅彦随筆集を手に取ってくだされば、著者の喜びとするところである。(同書p142より)

 「作品のバックグラウンド知って読めば、その作品の面白さは何倍にもふくらむ!!」
 著者の言うとおりだと思った。納得できた!!
 ナラバ 
 今一度、その「読み方」を学びたいものだと思った。

▼2020年6月のオンライン「寅の日」の計画を立てる時期である。
 そこで6月のテーマは
【6月テーマ】『教科書に掲載された 寺田寅彦作品を読む』 として、前記著書に取り上げられた三作品を読むことにする。
 6月は3回あった。

■2020年6月オンライン「寅の日」!!
◆第255回オンライン「寅の日」 …6/04(木)
◆第256回オンライン「寅の日」 …6/16(火)
◆第257回オンライン「寅の日」 …6/28(日)

▼その三作品とは
「新星」(「小さな出来事」四 青空文庫より)
・「凌霄花」(「花物語」四 青空文庫より)
・「森の絵」(青空文庫より)

である。 いずれも短い作品であるが、ゆっくり味わいながら読みたいものだ。

 

■2020年6月オンライン「寅の日」!!

◆第255回オンライン「寅の日」 …6/04(木)「新星」(「小さな出来事」四 青空文庫より)

◆第256回オンライン「寅の日」 …6/16(火)「凌霄花」(「花物語」四 青空文庫より)

◆第257回オンライン「寅の日」 …6/28(日)「森の絵」(青空文庫より)

 

▼今、世間では「オンライン」というコトバが注目を集めている。
 たしかに「オンライン」の可能性は大きい。不可能と思い込んでいたことも、「オンライン」なら案外簡単に可能だということも知った。
 想像していた以上に愉しいものであることもわかった!!
 でもやっぱり「オフライン」でのツナガリが最高に愉しい!!

 オフライン「寅の日」もまた どこかで企画したいものである。

 

 

 

 

 

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本日(2020/05/11)、第253回オンライン「寅の日」!!#五月の唯物観 #traday #寺田寅彦

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▼ 卵の重心から下ろした垂線が、卵の表面の凸三点でつくる三角形内にあれば卵は立つ!!
  誰が いつ やっても卵は立つ!!
  それはアタリマエに立つ!!
  それが カガク !! 
  ナラバ
  垂線が三角形内からはみ出してしまう「事件」が起こらないかぎり卵は立ち続ける!!
  それもまたアタリマエの カガク!!

 今年もまた節分に立てた「立春の卵」。三ヶ月経った5/3には一個の卵は確かに立ちつづけていた!!
 ところが、昨日(2020/05/10)には最後の一個の卵も倒れてしまっていた。100日経っていないのに… (/_;)
 「事件」は起きたのだ。

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 してみると、2015年の「191日の軌跡」はやはりギネス級の「記録」だ!!(完全「自画自讃」モード(^^ゞポリポリ)

●【立春の卵】191日の軌跡 

 中谷宇吉郎先生もびっくりしてくれるだろうか!!
 寅彦だったら何と言うだろう!?

▼本日(2020/05/11)、第253回オンライン「寅の日」である。
 5月のテーマはきめていた。

 【5月テーマ】「寅彦と学問」

である。その第一弾として、本日読むのは「五月の唯物観」である。

◆本日(2020/05/11)、第253回オンライン「寅の日」!!

「五月の唯物観」(青空文庫より)

▼寅彦の最晩年(1935年)の5月発表の作品である。
 さすがうまいもんだ!!

若かった時分には四月から五月にかけての若葉時が年中でいちばんいやな時候であった。理由のない不安と憂鬱の雰囲気のようなものが菖蒲や牡丹の花弁から醸(かも)され、鯉幟(こいのぼり)の翻る青葉の空に流れたなびくような気がしたものである。
それが年を取るうちにいつの間にか自分の季節的情感がまるで反対になって、このごろでは初夏の若葉時が年中でいちばん気持のいい、勉強にも遊楽にも快適な季節になって来たようである。

(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
 私もそうかも知れない。なんて思い出すとそこは寅彦の思うつぼだ!!
 そうして、こうまくし立てられるとすっかりその気になってくる。

この著しい「転向」の原因は主に生理的なものらしい。試みに自分のあやしげな素人生理学の知識を基礎にして臆説を立ててみるとおおよそ次のようなことではないかと思う。  われわれが格別の具体的事由なしに憂鬱になったり快活になったりする心情(ムード)の変化はある特殊の内分泌ホルモンの分泌量に支配されるものではないかと思われる。それが過剰になると憂鬱になったり感傷的になったり怒りっぽくなったりするし、また、過少になると意気銷沈(しょうちん)した不感(アパシー)の状態になるのでないかと思われる。
さらには
 数式で書き現わすと、この問題の分泌量Hがざっと H = H0 + A sin nt のような形で書き現わされその平均水準のH0[#「H0」は縦中横]と振幅Aとが各個人の各年齢で色々になる量だとする。そこで今いちばん適当なHの量を仮にKだとすると、上式をKに等しいと置いたときにその式を満足するような時間tに相当する時季がその人のいちばん気持のいいときになる勘定である。  もしも H0 - A がKより大きいような人ならばその人は年中怒りっぽくまた憂鬱になりやすいし、また H0 + A がKより小さい人は年中元気がなく悄気(しょげ)ていることになる。

と来る。ここにいたってはすっかり寅彦ワールドだ!!

▼でもここまでで終わらないところが、また寅彦の凄いところだ!!
 実は本意はここにあるよと教えてくれる。

しかし自分がここでこんなことを書きならべたのは別にそうした学説を唱えるためでも何でもないので、ただここでいったような季節的気候的環境の変化に伴う生理的変化の効果が人間の精神的作用にかなり重大な影響を及ぼすことがあると思われるのに、そういう可能性を自覚しないばかりに、客観的には同じ環境が主観的にある時は限りなく悲観されたり、またある時は他愛もなく楽観されたりするのを、うっかり思い違えて、本当に世界が暗くなったり明るくなったりするかのように思い詰めてしまって、つい三原山へ行きたくなりまた反対に有頂天(うちょうてん)になったりする、そういう場合に、前述のごとき馬鹿げた数式でもひねくってみることが少なくも一つの有効な鎮静剤の役目をつとめることになりはしないかと思うので、そういう鎮静剤を一部の読者に紹介したいと思ったまでのことである。

そして、最後に「学問」の意義について次のように語っていた。

 しかしたとえこれに関して科学者がどんな研究をしようとも、いかなる学説を立てようとも、青葉の美しさ、鰹のうまさには変りはなく、時鳥の声の喚び起す詩趣にもなんら別状はないはずであるが、それにかかわらずもしや現代が一世紀昔のように「学問」というものの意義の全然理解されない世の中であったとしたら、このような科学的五月観などはうっかり口にすることを憚(はばか)らなければならなかったかもしれないのである。そういう気兼ねのいらないのは誠に二十世紀の有難さであろうと思われる。

寅彦がこう語ってから85年の月日が経った。
 2020年の5月!!
今、寅彦ならはどんな「科学的五月観」を語っただろう!?

 ちなみに「立春の卵」の中谷宇吉郎先生は、その最後にこう書いていた。

 人間の眼に盲点があることは、誰でも知っている。しかし人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである。卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細(ささい)な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。

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本日(2020/04/29)、第252回オンライン「寅の日」!!#漫画と科学 #traday #寺田寅彦

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  好きなもの
  苺 珈琲 花 美人
  懐手 して 宇宙見物
         1934.1.2

寅彦も大好きな苺の季節が今年もやってきた。

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▼本日(2020/04/29)は、第252回オンライン「寅の日」である。
 9年目の歩み最初の4月は次のテーマであった。

【4月テーマ】 「科学・科学者とは!?」

 本日はその第三弾として「漫画と科学」を読む。

◆本日(2020/04/29)、第252回オンライン「寅の日」!!

●「漫画と科学」(青空文庫より) 

▼寅彦のテリトリーの広さにはいつも驚かされる。
 いつもあれよあれよと言う間に寅彦ワールドに引き込まれてしまう。
 今回は「漫画」である。

 そうしてこの種の漫画によって表現された人間の形態並びに精神的の特徴は、一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有する一つの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。
それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。
その表現の方法は「術」であるかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。  科学上の業績は単に分析にのみよって得られるものと考えるのは、有りふれた、しかし大なる誤謬である。少なくも優れた科学者が方則を発見したりする場合には直感の力を借りる事は甚だ多い。そういう場合には論理的の証明や分析はむしろ後から附加されるようなものである。また一方において漫画家の抽象は必ずしも直感のみによるとは考えられない。たとえ無意識にしろ、直感で得た暗示をだどって確かなある物を把握するまでの道筋は確かに一種の分析である。それでこれらの点における両者の精神作用の差違はあっても僅少なものである。
 

 なにやらよくわからぬうちにこのようにまくしたてられると、うんうんとうなずくしかないのである。
 寅彦マジックにかかっているようなものだ。

▼どうやらこの随筆の本意は次あたりにあるような気がする。

 漫画の目的とするところはやはり一種の真である。必ずしも直接な狭義の美ではない。ただそれが真であることによって、そこに間接な広義の美が現われるように思う。科学の目的もただ「真」である。そして科学者にとってはそれが同時に「美」であり得る。
 科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉されて、それぞれ明確な意味をもっている。換言すれば有限な数の言語で説明し尽さるべき性質の概念である。漫画家の言語たる線や点や色はこれに反して多次的な無限の「連続(コンチニウム)」を形成するものである。それで漫画家は言語では到底表わす事の出来ない観念の表現をするための利器を持っている。その利器の使い方の巧拙はその画家の技能を評価する目標の一つになるが、それよりも重大な標準は、それによって表わすべきものの、真の種類や程度にある事は勿論である。科学者がその方則を述べる字句の巧拙や運算の器用不器用は必ずしもその方則の価値と比例しないのと一般であろう。
   人は自らの文脈にひきつけてしか、他人の文脈を読み解くことができない。  私の文脈のなかでは以下の文章は「蛇足」にしか思えないが、深い意味があるのだろうか?  私にはわからない。  私にもわかることがひとつある。守備範囲がいかに広がっても

 寅彦の軸足はいつも「科学者」にある!!

 ということだ。

 自分とはまたちがった読み解きの意見も聞きたいものである。
 「オンライン」であることの優位性を存分に生かして…<(_ _)> 

 

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