2018年2月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼わずかばかりの青空が消えようとしていた。
 そして、空は赤く染まり夕焼けがはじまろうとしていた。

 「空はなぜ青いの!?」
 「夕焼けはなぜ赤いの!?」
 誰しもが一度はいだく「ふしぎ!?」だ。
 その謎解きをみごとにやってみせてくれた物理学者がいる。
 「レイリー散乱」でお馴染みのレイリーである。

 寅彦はこの物理学者にいたく関心を持っていたようである。
▼2018年2月のオンライン「寅の日」の計画を立てる時期である。
 2017年12月、2018年1月とひとつの随筆集に焦点をあてるというスタイルでやってきた。
 2月はちょっとスタイルを変えてみたいと思う。
 先にテーマを決めてみようと思う。前述の物理学者レイリー(寅彦はレーリーと言っているが)と関連してのテーマだ。
 【2月テーマ】 寺田物理学とレイリー 
 である。2月は3回ある。

■2018年2月オンライン「寅の日」

◆第183回オンライン「寅の日」 …2/03(土)
◆第184回オンライン「寅の日」 …2/15(木)
◆第185回オンライン「寅の日」 …2/27(火)

である。
▼寅彦がレイリーの評伝を書いていた。
 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」である。かなり詳しく長編である。
 2月の3回は、どの回もこれを読むことにあてたい。どこまでを一回分とするかの判断はなかなかむつかしい。
 大まかに3分割して読むことにするが、どの部分を話題にしてもOKということでいきたい。

■2018年2月オンライン「寅の日」

◆第183回オンライン「寅の日」 …2/03(土)「レーリー卿(Lord Rayleigh)(1)」(青空文庫より)

◆第184回オンライン「寅の日」 …2/15(木)「レーリー卿(Lord Rayleigh)(2)」(青空文庫より)

◆第185回オンライン「寅の日」 …2/27(火)「レーリー卿(Lord Rayleigh)(3)」(青空文庫より)

▼「寅彦はなぜかくも深くレイリーにこだわったのか?」
 2月中にひとつでも答えをみつければもうけもんだ!!

 実は私自身も個人的な事情があって、この随筆が気になっていた。
 その事情とは…・2月になったら少しずつ語ってみたい。

 2月もよろしくお願いします。<(_ _)>
 

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本日(2018/01/10)、第181回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼昨日(2018/01/09)はとても風の冷たい寒い一日だった。
 いつもの「雲見」定点より「雲見」をする。

 その「雲見」画像と「アメダス」の記録とリンクさせてみる。

 誰にでもできる小さな試みだ!!
 これが実に面白い!!

 やっぱり今、「アメダス」はとてもすぐれた教材である!!

▼本日(2018/01/10)は、第181回オンライン「寅の日」である。
 2018年になっての初回である。
 今月のテーマは 随筆集『空想日録』 である。
 本日は、そのなかの「二 製陶実演」を読む。

◆本日(2018/01/10)、第181回オンライン「寅の日」!!

●「二 製陶実演」(『空想日録』青空文庫より)

▼人はそれぞれの自分の「文脈」に引き寄せて人の「文脈」を読む。
 アタリマエすぎるほどアタリマエのことだ。
 
 私の「文脈」に沿ってこれを読んだ。いちばんナルホドと思ったのは終りの方にあった。

学問の場合には、素材というものの価値が実は非常に重大である。いい素材を発見しまた発掘するということのほうがなかなか困難であってひと通りならぬ才能を要する場合が多く、むしろそれを使って下手(へた)な体系などを作ることよりも、もっとはるかに困難であると考えられる場合も少なくはない。そうして学術上の良い素材は一度掘り出されれば、それはいつまでも役に立ち、また将来いかなる重大なものに使用されるかもしれないという可能性をもっている。

 私は、私の「文脈」において、寅彦の言う「素材」は「教材」に読み替えていた!!
  
▼それだけではないのが寅彦のすごさだ。
 続けてこうも言っていた。

これに反してその素材を用いて作り上げられた間に合わせの体系や理論の生命は必ずしも長くはない。場合によってはうちの台所の水甕(みずがめ)の生命よりも短いこともある。水甕の素材は二度と使えなくても、学説や理論の素材はいつでもまた使える。こういうふうに考えて来ると学問の素材の供給者が実に貴(たっと)いものとして後光を背負って空中に浮かみ上がり、その素材をこねてあまり上できでもない品物をひねり出す陶工のほうははなはだつまらぬ道化者の役割のようにも思われて来るのである。
 

 それにしても寺田寅彦の「文脈」は実に面白い。
 たまたま

三越(みつこし)へ行ったら某県物産展覧会というのが開催中であって、そこでなんとか焼きの陶器を作る過程の実演を観覧に供していた。
 

からはじめて、話をここまで展開するとはやっぱりスゴイ!!
さらにはきっちり落ちをつけていた。

 しかし、そういう理屈はいっさい抜きにして、あの陶工の両手の間で死んだ土塊が真に生き物のように生長して行く光景を見ている瞬間には、どうしても人間のものを生み出す創作能力の尊さを賛美しないわけには行かないのであった。

あなたの「文脈」に引き寄せて読めばこの随筆はどう読めますか!?

今年もオンライン「寅の日」をよろしくお願いします。<(_ _)>

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本日(2017/12/31)、第180回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼昨日、大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから36週目であった。
 冷え込みは思っていたほどきびしくなかった。一見したときは氷もはっていないように見えた。
 しかし、じっくりとよく見ているとうすいうすい氷がはっていた。
 来年はぜひこの氷のことくわしく科学してみたいものだ。

 うすい氷を見ながら、「つまらない」ことを想像していた。
 今、日本全国の「観察池」に氷がはっているか、はっていないかで色分けしてその分布を知ることができたらおもしろいだろうな!!
 何が見えくるのかな!?

▼本日(2017/12/31)は、第180回オンライン「寅の日」である。
 12/31は寺田寅彦の命日である。
 1935年(昭和10)12月31日、転移性骨腫症で数え58歳で亡くなった。
 今から82年前である。
 本日特番オンライン「寅の日」で読むものはきめていた。
 「日本人の自然観」である。

◆本日(2017/12/31)、第180回オンライン「寅の日」!!
 

●「日本人の自然観」(青空文庫より)

▼「日本人の自然観」が発表されたのは1935年(昭和10)10月だそうだ。
 亡くなる2ヶ月前だ。

 私は勝手にこれは寅彦が私たちに遺してくれた「遺言」だと思っている!!

 2012年4月からはじめたオンライン「寅の日」では、繰り返しこれを読んできた。
 今回で実に7回目である。
 回数多く読んだからと言って、その本意をどこまで読み解いたかと言われると困ってしまう。
 しかし、

 ここに寅彦の伝えたかったことのすべてがある!!
 
 そんな気がしていた。
 
 「私の自然観」と「私の科学」の間には深い関係がある。
 アタリマエ!!だ。
 
 寅彦の「自然観」について書かれていた。

  われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。
 

▼続いて「日本の自然」の特異性について語り、「日本人の日常生活」「日本人の精神生活」に言及している。
 読むたびにナルホドと納得し、学ぶところが多い。
 ときには、これがほんとうに80年以上前に書かれたことなのかと疑ってみたりする。
 それほど今日的なのである。
 今年、引用させてもらうのはあとひとつとしておこう。

 現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
 


 これで今年のオンライン「寅の日」を終わります。
 32回のオンライン「寅の日」になんらかのかたちでつき合ってくださった方々ありがとうございました。
 来年も引き続きよろしくお願いします。良いお年を…    <(_ _)>
 
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本日(2017/12/29)、第179回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼高層の強い風を想像させるような「雲見」だった。
 アジア500hPa・300hPa高度・気温・風・等風速線天気図(AUPQ35)を開いてみたら確かにすごい風が吹いていた。
 
 寅彦もこの高層気象観測には早い段階から関心を持っていたようだ。
▼本日(2017/12/29)は、第179回オンライン「寅の日」である。
12月は随筆集『自由画稿』を集中して読んでいる。
 今回はその三回目、「十五 視角」を読む。

◆本日(2017/12/29)、第179回オンライン「寅の日」!!

●「十五 視角」(『自由画稿』青空文庫より)

▼今回、私が勝手につけたテーマは
「科学的に視る!!」
 今回の随筆は昭和10年4月に発表されたものだそうだ。
 昭和10年(1935年)は、寅彦の最晩年だ。
 ふだん見聞きする何気ない日常のことからはじめて、「科学」を説く寅彦の作風は円熟味を増していた。

 最初にナルホド!!と膝をたたいたのは次だ。

これは機上から見た列車の全長の「視角」がほぼ腕の長さに等しい距離において一尺の長さが有する視角に等しいという意味と思われる。それで列車の実際の長さがわかっていれば、その時の飛行機の高度が算出される勘定である。しかし、多くの人はこういう場合に単に汽車が一尺ぐらいに見えたとか橋がマッチぐらいだったとか言う。これは科学的にはほとんど無意味な言葉である。

 言われてみればそのとおりだ。
 私もふだんそう言ってしまっているナ。「飛行機の高度」を算出は思い浮かばないな(^^ゞポリポリ

▼何度読んでも今ひとつ理解できないところがある。

たとえばまた自分の専攻のテーマに関する瑣末(さまつ)な発見が学界を震駭(しんがい)させる大業績に思われたりする。しかし、人が見ればこれらの「須弥山(しゅみせん)」は一粒の芥子粒(けしつぶ)で隠蔽(いんぺい)される。これも言わば精神的視角の問題である。

どういうこと ?(゜_。)?(。_゜)?

 しかし、次は納得である。

それは、太陽や月の直径の視角が約半度であること、それから腕をいっぱいに前方へ伸ばして指を直角に曲げ視線に垂直にすると、指一本の幅が視角にして約二度であるということであった。それでこの親譲りの簡易測角器械さえあれば、距離のわかったものの大きさ、大きさのわかった物の距離のおおよその見当だけは目の子勘定ですぐにつけられる。これも万人が知っていて損にならないことであるが、木を見ることを教えて森を見ることは教えない今の学校教育では、こんな「概略な見当」を正しくつけるようなことはどこでも教えないらしい。

 最後に気になることがあるのでそれをあげておく。

 月や太陽が三十メートルさきの隣家の屋根にのっかっている品物であったらそれはたしかに盆大である。しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。

 これはどういうことだろう?
 「宇宙見物」大好き人間の寅彦が間違うことがあるだろうか?
 私がなにか勘違いしているのかな?
 

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2018年1月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼賢治の「雲見」!!
  寅彦の「宇宙見物」!!
 それは私の勝手に思い込んでいることにすぎない。
 寅彦もやはり「雲見」の達人でもあったようだ。
 
 

「日本の春は太平洋から来る。」
 

 ではじまる「春六題(六)」(青空文庫より)の随筆を読んでいると強くそう思う。

▼年明けての2018年1月のオンライン「寅の日」を考える時期が来ている。
 12月は、随筆集「自由画稿」のなかから3つを選んだ。
 この方法が気に入ってしまった。寅彦は森羅万象いたることに関して随筆を残してくれていた。
 あまり科学とは関連なさそうなテーマだ、と思いながら読み始めても、そこには寅彦独特の深い「科学の眼」があった。それが面白いと思った。
 1月もこれでいこうと思う。1月は2回あった。

■2018年1月オンライン「寅の日」

◆第181回オンライン「寅の日」 …1/10(水)
◆第182回オンライン「寅の日」 …1/22(月)

▼ではどんな随筆集にするか?
 またしてもヒントを与えてくれたのは高知県立文学館・寺田寅彦記念室の3本のビデオだった。
  「割れ目と生命の実験」で引用された「空想日録」だけはまだオンライン「寅の日」で読んでいなかった。
 そこで、「空想日録」より「二 製陶実演」「三 身長と寿命」を読むこととする。

■2018年1月オンライン「寅の日」

◆第181回オンライン「寅の日」 …1/10(水)「二 製陶実演」(「空想日録」 青空文庫より)

◆第182回オンライン「寅の日」 …1/22(月)「三 身長と寿命」(「空想日録」 青空文庫より)

▼2012年4月にはじめたオンライン「寅の日」も、来年は7年目に入る。
 自分で面白くなくなったら、すぐやめようと思っていた。
 ところが「寅の日」を機に読み始めた寅彦は面白すぎた!!
 読めば読むほど面白い!!
 どれをいつ読んでも新鮮で今日的だ!!

 予定通り行けば2018年8月には200回に達する。
 記念オフやりたいですね。

 2018年もよろしくお願いします。<(_ _)>

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本日(2017/12/17)、第178回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼昨日朝、大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから34週目であった。
連日の冷え込みは少しやわらいでいた。観察池には氷もはっていないように思われた。
 流星観察のため外に出たときは、暗がりのなかでは見えなかったので指で突っついてみて確かめた。
 夜が明けて、明るくなると見てわかった。やっぱり氷ははっていなかった。
 なぜそう判断したか!?
 「透明」で泥の底が見えたからだ。あれ!?、緑の植物らしきものも見える。
 液体の水と固体の氷 見た目どこがちがうの?

 実に「つまらない話」だ。
▼本日(2017/12/17)は、第178回オンライン「寅の日」である。
12月のテーマは
・随筆集『自由画稿』
である。その第二弾である今回は、そのなかから「十二 透明人間」を読む。

◆本日(2017/12/17)、第178回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

●「十二 透明人間」(『自由画稿』 青空文庫より)

▼今回のキーワードは「つまらない話」だ。
 寅彦流に言うと 「瑣末な疑問」 だ。

この映画を見ているうちに自分にはいろいろの瑣末(さまつ)な疑問がおこった。

 この「瑣末な疑問」がいかに興味津々の「科学」の話になるか!!
 お手並み拝見だ。

 いきなりこうだ。

 第一には、この「透明人間」という訳語が原名の「インヴィジブル・マン」(不可視人間)に相当していないではないかという疑いであった。 「透明」と「不可視」とは物理学的にだいぶ意味がちがう。たとえば極上等のダイアモンドや水晶はほとんど透明である。しかし決して不可視ではない。

 ナルホド(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
 と思えば、そこはもう寅彦の世界だ!!
▼「透明」と「不可視」はちがうと説く。そして、こう結論づける。

 こう考えてみると「透明人間」という訳語が不適当なことだけは明白なようである。

続けて言う。

そこで、次に起こった問題はほんとうに不可視な人間ができうるかどうかということであった。ウェルズの原作にはたしか「不可視」になるための物理的条件がだいたい正しく解説されていたように思う。

そして、「不可視人間」など存在しない!! に持って行くのである。
なんと科学的!!
みごとな展開である。

そして科学者・寺田寅彦は言う。

 以上は別にウェルズの揚げ足をとるつもりでもなんでもない、ただ現在の科学のかなり根本的な事実と牴触(ていしょく)するような空想と、そうでない空想との区別だけははっきりつけておいたほうが便利であろうと思ったからしるしておくだけである。

 オマケがついていた。このオマケがまたまた寅彦らしいものだった。

 これは全くよけいなことであるが、「人間」の人間であるゆえんもやはりその人間と外界との「境界面」によって決定されるのではないか。境界面を示さない人間は不可視人間であり、それは結局、非人間であり無人間であるとも言われるかもしれない。善人、悪人などというものはなくて、他に対して善をする人と悪をする人だけが存在するのかもしれない。同じように「何もしないがえらい人」とか「作品はあまりないが大文豪」とか「研究は発表しないがえらい科学者」とかいうものもやはり一種の透明不可視人間かもしれないのである。

ひょっとしたら、寅彦の本意はオマケの方にあるかも知れない。(^^)V

 私の「つまらない話」=「瑣末な疑問」はどうなっただろう?
 今朝は氷かはっているかな!?

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本日(2017/12/05)、第177回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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誰の糞だろう!?
 その糞に朝日があたっていた。周り見ると生々しい足跡が残っていた。
 いつもの朝の散策の場所、竹藪の下だ。
 糞の主を少ない知識から私は推理した。
 「イノシシ」と!!(正しいかはわからない。) 
 と言うことは…

 糞はどうなっていくだろう? また朝の宿題がひとつ増えた。
▼本日(2017/12/05)は、第177回オンライン「寅の日」である。
12月のテーマは
「自由画稿」を読む
 その意図を「はしがき」より再び読み取ってみる。

どんな瑣末(さまつ)な科学的知識でも、その背後には必ずいろいろな既知の方則が普遍的な背景として控えており、またその上に数限りもない未知の問題の胚芽(はいが)が必ず含まれているのである。(「自由画稿」はしがき より)

今回は、そのなかの「十 うじの効用」を読む。

◆本日(2017/12/05)、第177回オンライン「寅の日」!!

●「十 うじの効用」(『自由画稿』 青空文庫より) 

▼『自由画稿』は、寅彦の最晩年(昭和10年 1935)の作品である。
 これは何度でも言いたい!!
 今から82年も前に書かれた随筆集なのである。驚くばかりだ。
 なんと今日的のことか!!

 今回の「十 うじの効用」もそうだ。今の時代に通用するどころか、今こそ読むべき「警鐘」なのかも知れない。

 科学者・寺田寅彦は「うじ」の味方だった。

このような「市井の清潔係」としてのうじの功労は古くから知られていた。
 うじがきたないのではなくて人間や自然の作ったきたないものを浄化するためにうじがその全力を尽くすのである。尊重はしても軽侮すべきなんらの理由もない道理である。

▼そこに止まらないのが、寅彦の魅力でもあった。

自然界の平衡状態(イクイリブリアム)は試験管内の化学的平衡のような簡単なものではない。ただ一種の小動物だけでもその影響の及ぶところは測り知られぬ無辺の幅員をもっているであろう。その害の一端のみを見て直ちにその物の無用を論ずるのはあまりに浅はかな量見であるかもしれない。
天然の設計による平衡を乱す前にはよほどよく考えてかからないと危険なものである。

これぞ現代への「警鐘」!!


 この寒さでも「うじ」は登場するのだろうか!?
 ナラバあの糞はどうなるのだろう。しばらく観察をつづけてみよう。

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本日(2017/11/23)、第176回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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「朝焼けは 雨」

 これを立証するかのような「小雪」の朝だった。
 日暈が見えかけたかと思ったら、さらに雲は厚くなっていった。そして、昼ごろにはこらえきれなくなって雨が降ってきたのである。
 ここにはまちがいなく大気の「科学」がある!!

▼本日(2017/11/23)は、第176回オンライン「寅の日」である。
 11月テーマは【理科の部屋】誕生月にちなみ
・寅彦と「理科教育」「科学教育」
 である。
 なんという偶然だろう!!。本日は【理科の部屋】24歳の誕生日なのである。
 読むのは「雑感(「理科教育」より)」である。

◆本日(2017/11/23)、第176回オンライン「寅の日」!!

●「雑感」(「理科教育」より)(青空文庫より)

▼これは昭和3年11月、雑誌『理科教育』に寄稿されたものである。
 だからダイレクトに理科教師に向けて書かれたものと言っていいと思う。
 時代背景を差し引いて考えても、やっぱり今日的だ。

 それは教科書や講義のノートの内容そのものよりも、むしろそれを教わった先生方から鼓吹された「科学魂」といったようなものであるかと思われる。
   「科学魂」などというコトバをだされると変な精神主義を想起して、少し引いてしまいそうだが
 科学教育の根本は知識を授けるよりもむしろそういう科学魂の鼓吹にあると思われる。しかしこれを鼓吹するには何よりも教育者自身が科学者である事が必要である。先生自身が自然探究に対する熱愛をもっていれば、それは自然に生徒に伝染しないはずはない。実例の力はあらゆる言詞より強いからである。

と言われると、大いに納得するのである。
 さらには

 すべての小学校、中学校の先生が皆立派な科学者でなければならないという事を望むのは無理である。実行不可能である。しかしそんな必要は少しもない。ただ先生自身が本当に自然研究に対する熱があって、そうして誤魔化さない正直な態度で、生徒と共に根気よく自然と取込み合うという気があれば十分である。先生の知識は必ずしもそれほど広い必要はない。いわゆる頭の良い必要はない。

とまで言われると、なにかうれしい気分になってくるのである。

▼理科教師に「注文」もつけていた。

 間違いを教えたとしてもそれはそれほど恥ずべき事ではない。また生徒の害にもならない。科学の歴史は一面から見れば間違いの歴史である。間違える事なしには研究は進められない。誤魔化さないことだけが必要である。
先生の分らない事は大抵誰にも本当はよく分らない事である。分らない事は恥でも何でもない。分らない事を分ったような顔をするほど恥ずべき事はない。

ナルホド(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

この文章が、89年の時空を越えて送られた寅彦からの熱きエールに読めてきた。!!

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2017年12月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼今、八手の花が花盛りだ!!
 「待っていました」とばかりハエやアブが大集合している。
 ハエだろうか?
 アブだろうか?
 「ハエという名のアブ」がいたり「アブという名のハエ」がいたりするそうだから話はややこしい。
 ハエ・アブの仲間ということにしておこう。
 \(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ
 そのしぐさを観察しているととても面白い!!いつまで観察していても飽きることがない。

 こんなときはいつも思うんだ。

 寅彦だったらどんなふうに観察しただろう?

と。
▼師走のオンライン「寅の日」の計画を立てる時期が来ている。
 ちょっと読み方を変えようと思っている。これまでだと先に月ごとのテーマを決めておいて、それにあうような随筆を選択していた。それだと集中的にテーマを考えることができる利点があった反面、読む随筆が片寄ってしまうところがあった。
 寅彦は晩年数多くの随筆集を出している。雑誌などに連載していたものをリメイクして出したことが多いようだ。
 そこで、先に随筆集を決めてしまっていて、そのなかから小編を選んで読んでいくという方法にしばらく変えて見たい。気まぐれなのでまた元の方法にもどるかも知れないが。
 その方法での初回は「自由画稿」でいきたい。

 12月は大晦日(寅彦の命日)の特番を含めて4回ある。

■2017年12月オンライン「寅の日」

◆第177回オンライン「寅の日」 …12/05(火)
◆第178回オンライン「寅の日」 …12/17(日)
◆第179回オンライン「寅の日」 …12/29(金)
◆第180回オンライン「寅の日」 …12/31(日)

▼「自由画稿」にしたのには少しだけわけがある。
 高知に行く度にお邪魔している「高知県立文学館」には「寺田寅彦記念室」という常設コーナーがある。とても興味深い展示資料もさることながら、ここで観ることができる3本の実験ビデオがある。私は大のお気に入りだ。
 その実験ビデオは寅彦のやった実験の再現実験・研究紹介とともに随筆の一部を紹介をしていた。
 そのビデオのひとつ「地滑りの実験」 には、「自由画稿」はしがきより次の文が引用してされていた。

どんな瑣末さまつな科学的知識でも、その背後には必ずいろいろな既知の方則が普遍的な背景として控えており、またその上に数限りもない未知の問題の胚芽(はいが)が必ず含まれているのである。

 この文がとても気に入ってしまい、いつかは随筆集「自由画稿」をじっくり読んでみたいと思っていたのである。
 今回は私が面白そうだと思った3編を選んだが、別の随筆を話題にしてもらってもいいと思う。
 いやむしろその方が面白いかも知れない。

■2017年12月オンライン「寅の日」

◆第177回オンライン「寅の日」 …12/05(火)「うじの効用」(『自由画稿』青空文庫より)

◆第178回オンライン「寅の日」 …12/17(日)「透明人間」(『自由画稿』青空文庫より)

◆第179回オンライン「寅の日」 …12/29(金)「視角」(『自由画稿』青空文庫より)

◆第180回オンライン「寅の日」 …12/31(日)「日本人の自然観」(青空文庫より)

▼2017年も残すところ一ヶ月あまりとなった。
2012年4月にはじめたオンライン「寅の日」も、大晦日で第180回だ!!

思えば遠くへ来たものだ!!

今年もオンライン「寅の日」でしめくくろう!!

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本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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10/1710/25 「自然結実」ヒガンバナ群生地で採集した花茎をペットボトル、のりの瓶などを使って「水栽培」をしていた。10/17採集分の方はふくらんだ子房部が割れ、完熟しかけた「種子」が顔を出してきた。
 しかし、昨年度までのようにみごとな「目玉オヤジ」状態にならない。
 やっぱり今年はちがうのだろうか!?

 「やっぱり、日本のヒガンバナは3倍体でめったに種子はつくらないよね」
と言われても、「あたまの悪い」私はどうしても簡単に同意できなかった。
 私が4年連続して見てきた「自然結実」種子は何だったんだ?
 数は少ないとは言え、「発芽(発根)」「出葉」してきたものもあるではないか!!

▼本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」である。
 11月のテーマは【理科の部屋】誕生月にちなみ

・寅彦と「理科教育」「科学教育」

である。その第一弾として本日読むのは「科学者とあたま」だ。

◆本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」!!

●「科学者とあたま」(青空文庫より)

▼私はこの随筆が大好きだ!!
 いちばんのお気に入りかもしれない。だからオンライン「寅の日」でも何度もとりあげてきた。
 何度繰り返し読んでもいい!!
 私のような「あたまの悪い」人間にとっては、このうえない熱きエールに聞こえてくる!!

 引用はできるだけ少なくをこころがけようと思うがどうしても紹介したくなってしまう。

 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者いなかものであり朴念仁ぼくねんじんでなければならない。

これだけ読むだけでもなにかうれしくなってしまうのだ。
 さらには次のようにたたみ込まれると、なにか寅彦が自分の味方になってくれたようなさっかくまでおぼえてしまうのである。
 

自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。
 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。

科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。

▼私はこの寅彦の随筆を84年の時空を超えたこれからの「理科教育」へのエールでもあると思っている。
 アイロニーいっぱいである。それだけ熱い期待があると思っている。

 

頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 

 「あたまの悪い」ことだけを売り物にするよな私のような人間にもチクリと痛いところを突いてこられる。

最後にもうひとつだけ

これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。

さあ、あなたはこの随筆を読んでどう思いますか!?

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