本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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10/1710/25 「自然結実」ヒガンバナ群生地で採集した花茎をペットボトル、のりの瓶などを使って「水栽培」をしていた。10/17採集分の方はふくらんだ子房部が割れ、完熟しかけた「種子」が顔を出してきた。
 しかし、昨年度までのようにみごとな「目玉オヤジ」状態にならない。
 やっぱり今年はちがうのだろうか!?

 「やっぱり、日本のヒガンバナは3倍体でめったに種子はつくらないよね」
と言われても、「あたまの悪い」私はどうしても簡単に同意できなかった。
 私が4年連続して見てきた「自然結実」種子は何だったんだ?
 数は少ないとは言え、「発芽(発根)」「出葉」してきたものもあるではないか!!

▼本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」である。
 11月のテーマは【理科の部屋】誕生月にちなみ

・寅彦と「理科教育」「科学教育」

である。その第一弾として本日読むのは「科学者とあたま」だ。

◆本日(2017/11/11)、第175回オンライン「寅の日」!!

●「科学者とあたま」(青空文庫より)

▼私はこの随筆が大好きだ!!
 いちばんのお気に入りかもしれない。だからオンライン「寅の日」でも何度もとりあげてきた。
 何度繰り返し読んでもいい!!
 私のような「あたまの悪い」人間にとっては、このうえない熱きエールに聞こえてくる!!

 引用はできるだけ少なくをこころがけようと思うがどうしても紹介したくなってしまう。

 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者いなかものであり朴念仁ぼくねんじんでなければならない。

これだけ読むだけでもなにかうれしくなってしまうのだ。
 さらには次のようにたたみ込まれると、なにか寅彦が自分の味方になってくれたようなさっかくまでおぼえてしまうのである。
 

自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。
 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。

科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。

▼私はこの寅彦の随筆を84年の時空を超えたこれからの「理科教育」へのエールでもあると思っている。
 アイロニーいっぱいである。それだけ熱い期待があると思っている。

 

頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 

 「あたまの悪い」ことだけを売り物にするよな私のような人間にもチクリと痛いところを突いてこられる。

最後にもうひとつだけ

これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。

さあ、あなたはこの随筆を読んでどう思いますか!?

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本日(2017/10/30)、第174回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼台風22号が去った夕方、定点からの「雲見」の空に日が射し青空がみえはじめた!!
 西の空に波状雲がみえはじめた。
 上空にはまだ強い風が吹いているのだろうか。

 あの雨からの青空への変化はとても半日のあいだに起こったことに思えなかった。
▼本日(2017/10/30)は、第174回オンライン「寅の日」である。
 10月のテーマは

 ・寅彦と「俳句」

である。その第三回目である。
 読むのは「俳諧の本質的概論」(昭和7年・1932)である。

◆本日(2017/10/30)、第174回オンライン「寅の日」!!

●「俳諧の本質的概論」(青空文庫より)

▼人はおのれの「文脈」に引きつけることによってしか他人の「文脈」を読み解くことはできない。
 それにしても、なんでこんな難解なものを選んでしまったのだろう?
 これが正直なところであった。それも懲りもせずにオンライン「寅の日」では4度目である。
 私の「文脈」でのキーワードは2つである。

(1) 「不易流行」

(2) 「連句的」

である。
 なんとか私なりに読み解こうと努力するが、不勉強な私には難解すぎる。(^^ゞポリポリ
いつも引用させてもらうところは同じになってしまう。
 ここに「俳句的」自然観察を採用しようとしたわけが書いてあった。

「風雅の誠をせめよ」というは、私わたくしを去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたものとも見られるのである。この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わなければならない。

 さらに第一のキーワード「不易流行」についてこう語っていた。

 季題の中でも天文や時候に関するものはとにかく、地理や人事、動物、植物に関するものは、時を決定すると同時にまた空間を暗示的に決定する役目をつとめる。少なくもそれを決定すべき潜在能をもっている。それで俳句の作者はこれら季題の一つを提供するだけで、共同作者たる読者の連想の網目の一つの結び目を捕えることになる。しかしこの結び目に連絡する糸の数は無限にたくさんある。そのうちで特にある一つの糸を力強く振動させるためには、もう一つの結び目をつかまえて来て、二つの結び目の間に張られた弦線を弾じなければならない。すなわち「不易」なる網目の一断面を摘出してそこに「流行」の相を示さなければならない。これを弾ずる原動力は句の「はたらき」であり「勢い」でなければならない。

▼第2キーワード「連句的」はずっと気になっているところだ。
 「連句的」物理学→寺田物理学!!
 の「文脈」を聞いてからずっとずっと…。
 私にはいっこうに見えてこないのだ。
 しかし、やっぱり気になるな。  「連句的」!!

 なんとも元気の出てくるコトバがあった。

 

風雅の道も進化しなければならない。「きのうの我れに飽きる人」の取るべき向上の一路に進まなければならない。

さて、5度目の挑戦はあるだろうか!?

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2017年11月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼冷たい雨が降っていた!!
 その雨にも耐えて彼女(ジョロウグモA)は体勢をくずさなかった。
 一昨日にはその場所から姿を消し、ザクロの葉に隠れていたはずなのに。いよいよ産卵かと思いずいぶん捜してみたのに、そうではなかったようだ。
 少し離れた位置の彼女(ジョロウグモB)の周辺には3匹ものオスがいた。

 雨風とは関係なく、律儀に地球は回転する。
▼2017年11月のオンライン「寅の日」を考える時期が来ている。
 11月と言えば、【理科の部屋】誕生の月だ。ここ数年それにちなみ11月は「理科教育」「科学教育」に関係するものを読んでいる。

【11月テーマ】寅彦と「理科教育」

 今年もこれで行きたい。11月には2回ある。

■2017年11月オンライン「寅の日」

◆第175回オンライン「寅の日」 …11/11(土)
◆第176回オンライン「寅の日」 …11/23(木)

▼アリガタイことに科学者・寺田寅彦は「理科教育」「科学教育」に関連するような随筆をけっこうたくさん書いていた。
 驚いてしまうのは、そのどれもがきわめて今日的であることだ。
 「これから」の理科教育を考えうえでも充分に示唆的だ。
 では2回に何を読むか? 
 お気に入りの2つを選んでみた。「科学者とあたま」「雑感」(「理科教育」より)である。
 奇しくも第176回は、【理科の部屋】24歳の誕生日と重なってしまった。

■2017年11月オンライン「寅の日」

◆第175回オンライン「寅の日」 …11/11(土) 「科学者とあたま」(青空文庫より)

◆第176回オンライン「寅の日」 …11/23(木) 「雑感」(「理科教育」より)(青空文庫より)

▼科学者・寺田寅彦自身も大学で講義をしていた。
 若き科学者を育てるということにかけてはすぐれた才能を持っていたのだろう。それは中谷宇吉郎をはじめとするお弟子さんたちの活躍みればわかる。
 

 学生のころ、たった一度だけ寺田寅彦の講演を生で聴いたことがある数学者の吉田洋一先生が『数学の影絵』(吉田 洋一著 角川選書)のなかで
◆「つまらない」こと~寺田寅彦の思い出~ (同書p246)
と題して次のように語っておられる。

 講演の終りのところでも、またちょっと声を大きくされた。「何だか変なこというようですが、どんなつまらないことでも、つまらないといって捨ててしまわないで研究していくと、たいへん面白いことがみつかってくるものです」こういって、ちょっとはにかんだような表情をして退場された。(同書p248)

 吉田先生はこの最後の言葉が忘れられないという。

 雨のなかのジョロウグモのことなど「つまらない」ことかも知れない。
 しかし、観察を継続しておれば面白いことみつかるかも知れない。
 さあ、今日も雨のようだ。
 彼女たちはどうするかな?

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本日(2017/10/18)、第173回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼そうだ!!待ちに待った青空は北の空からやって来た!!
 あまりにうれしかったので、空の写真を撮りまくった。
 
 それが、今のところ その「瞬間」の私の記録方法だ。
 さらに もうひとつの方法として…

▼本日(2017/10/18)は、第173回オンライン「寅の日」である。
 10月のテーマは

 ・寅彦と「俳句」

 である。その第二弾に読むのは「天文と俳句」である。

◆本日(2017/10/18)、第173回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

●「天文と俳句」(青空文庫より)

▼無謀にも、私が「もうひとつの方法」として採用したいと思っているのか「俳句」である。
 「俳句」では、その「瞬間」の決定を「季語」(季題)でやっていた。
 寅彦はそれをどう語っているだろう?

 季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。

さらには

無常な時の流れに浮ぶ現實の世界の中から切り取つた生きた一つの斷面像を、その生きた姿に於て活々と描寫しようといふ本來の目的から、自然に又必然に起つて來る要求の一つが此の「時の決定」であることは、恐らく容易に了解されるであらうと思はれる。花鳥風月を俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。

と語るのである。「時の決定」こそが最優先すると言うのである。
 その「時の決定」こそが「季語」(季題)であると言うのだ。

▼私は「不易流行」という言葉が好きだ!!
ホンモノの「流行」は「不易」を内包する!!
ホンモノの「不易」は「流行」を創造する!!
は持論だ。 \(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ

寅彦は「俳句」の「不易流行」の原理をこう語っていた。

要するに俳句は抽象された不易の眞の言明だけではなくて具體的な流行の姿の一映像でなければならない。

 さらには次の言葉は私には示唆的である。

此れは俳句が所謂モンタージュの藝術であることを明示する。

これまで繰り返し寅彦の随筆を読んできてだいぶんその「やり口」が見えてきた。
結論・本意は最後の最後に語っていた。

要するに此處で所謂「天文」の季題は俳句の第一要素たる「時」を決定すると同時に「天と地の間」の空間を暗示することによつて、或は廣大な景色の描寫となり、或は他の景物の背景となる。

蛇足になるがどうしても理科教師として引用させてもらいたい一文があった。

古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受けた今の人のに、そのわりに少ないやうに思はれるのも不思議である。昔の人は文部省流の理科を教はらないで、自分の眼で自然を見たのである。

 寅彦流のアイロニー的表現である。
 これも、「これから」の理科教育に向けた寅彦からのエールであると受け取っておこう。(^^)V

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本日(2017/10/06)、第172回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼空はすっかり秋めいていた。
 地上にも秋をみつけた。
 2016年の秋に採集し回収した「自然結実」ヒガンバナの種子、そのうちの3粒が今年の春発芽(発根)した。
 緑を失ってしまった段階で植木鉢に植え替えた。
 その一鉢から葉が出てきた。「出葉」だ\(^O^)/
 ほんとうに秋なんだ!!
▼こんな「自然観察」と「俳句」、一見直接的なツナガリはなさそうに見える。
 「それは、ちがう!!」と我らが寅彦が力説する。してその心は…。
 これが、10月オンライン「寅の日」のテーマである。

 【10月テーマ】 寅彦と「俳句」

 本日はその第一弾で「俳句の精神」を読む。

◆本日(2017/10/06)、第172回オンライン「寅の日」!!#traday

●「俳句と精神」(青空文庫より)

▼科学者・寺田寅彦はけっこうたくさん「俳句」「俳諧」「連句」についての随筆を書いている。
 そのなかでも今回の「俳句の精神」は、寅彦の最晩年(昭和10年・1935)の10月に発表されたものである。
 その年の大晦日に寅彦は亡くなっている。
 従って、この随筆はこれまでに語ってきたを集約したものであると言えそうだ。
 「一 俳句の成立と必然性」
 「二 俳句の精神とその修得の反応」
 「付言」
 とからなる。

 できるだけ引用をさけ、自分の読み解きを述べたいと思うが、そんな力量のない私はついつい引用させてもらうことが多くなる。
 まず「俳句」の必然性を次のように説いていた。

  日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに、人間と自然とをいっしょにしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。
 この自然観の相違が一方では科学を発達させ、他方では俳句というきわめて特異な詩を発達させたとも言われなくはない。

 「俳句」を生み出したのは、日本人の「自然観」であるというのである。
 そして「季語(季題)」について次のように語るのである。

 

俳句における季題の重要性ということも同じ立場からおのずから明白であろう。限定され、そのために強度を高められた電気火花のごとき効果をもって連想の燃料に点火する役目をつとめるのがこれらの季題と称する若干の語彙ごいである。

▼ナルホド(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
 と膝をうつコトバばかりがつづく。引用ばかりをしているときりがなくなってしまいそうだ。
 最後に、私がいまいちばん興味がある「自然観察」と「俳句」のツナガリについて長い引用をさせてもらおう。

 俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨(れんま)を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。これが修業の第一課である。しかし自然の美しさを観察し自覚しただけでは句はできない。次にはその眼前の景物の中からその焦点となり象徴となるべきものを選択し抽出することが必要である。これはもはや外側に向けた目だけではできない仕事である。自己と外界との有機的関係を内省することによって始めて可能になる。

寅彦のこのコトバをうけて今回はここまでとする。

俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。

 これぞ寅彦の究極の「俳句入門」のすすめである!! 

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本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼「引っ越し」した大賀ハス観察池は、蓮根の植え替えから22週目だった。
 先日の台風18号の風で直立した果托はもう一本もなくなってしまった。その向かいに我がヒガンバナ定点観察の庭があった。
 定点A~D、東京からの「引っ越し」ヒガンバナの今(2017/09/23)を「記録」しておこう。
 いつの日か「言葉」「文章」になることを期待して…。
▼本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」である。
 9月に読むのは 「科学と文学」 の一本である。
 本日はその2回目だ。

◆本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」!!#traday

「科学と文学」(2)(青空文庫より)

▼にわかには84年も前に書かれたと信じがたい文章である。
 きわめて示唆的かつ今日的「言葉」「文章」がならぶ。何度読んでもポンコツ頭にどれほど本意を読み解けたか不安ではあるが、ひとつの結論を持っていた。
 
 これは、科学者・寺田寅彦の「随筆のすすめ」である!! 

 そう思ったところを少し引用させてもらおう。

 そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
 それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。

▼「科学」に興味を持ち少しは関わってきたとは言え、「科学者」ではないポンコツ理科教師の私が言うのも少し恥ずかしいが、

私もいつの日か、寅彦の言う「随筆」を書いてみたい!!

と思っていた。
 そんな私に次なる文章は示唆的だ。

 科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
 それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。

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本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼「引っ越し」した大賀ハス観察池は、蓮根の植え替えから22週目だった。
 先日の台風18号の風で直立した果托はもう一本もなくなってしまった。その向かいに我がヒガンバナ定点観察の庭があった。
 定点A~D、東京からの「引っ越し」ヒガンバナの今(2017/09/23)を「記録」しておこう。
 いつの日か「言葉」「文章」になることを期待して…。
▼本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」である。
 9月に読むのは 「科学と文学」 の一本である。
 本日はその2回目だ。

◆本日(2017/09/24)、第171回オンライン「寅の日」!!#traday

「科学と文学」(2)(青空文庫より)

▼にわかには84年も前に書かれたと信じがたい文章である。
 きわめて示唆的かつ今日的「言葉」「文章」がならぶ。何度読んでもポンコツ頭にどれほど本意を読み解けたか不安ではあるが、ひとつの結論を持っていた。
 
 これは、科学者・寺田寅彦の「随筆のすすめ」である!! 

 そう思ったところを少し引用させてもらおう。

 そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
 それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。

▼「科学」に興味を持ち少しは関わってきたとは言え、「科学者」ではないポンコツ理科教師の私が言うのも少し恥ずかしいが、

私もいつの日か、寅彦の言う「随筆」を書いてみたい!!

と思っていた。
 そんな私に次なる文章は示唆的だ。

 科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
 それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。

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2017年10月のオンライン「寅の日」は #traday

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▼シロバナヒガンバナと言えども蕾にはどこか赤色を内包しているように見えた。
 それにしてもこの「律儀さ」はどこからくるのだろう?
今日は「彼岸の入り」である。
 庭の定点ヒガンバナは定点AからDまでどれもが多少の早い遅いの違いがあるが、きっちり顔を出していた。
▼2017年10月のオンライン「寅の日」の計画を考える時期だ。
 自然の「律儀さ」を現わしたものに歳時記がある。かつて寅彦は歳時記についてこう言った。

 

『歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である』


 10月のテーマも繰り返しになるが、これでいこうと思う。

 【10月テーマ】 寅彦と「俳句」 

 10月は3回ある。

■2017年10月オンライン「寅の日」

◆第172回オンライン「寅の日」 …10/06(金)
◆第173回オンライン「寅の日」 …10/18(水)
◆第174回オンライン「寅の日」 …10/30(月)

▼寅彦は「俳句」「俳諧」「連句」に関して多くの随筆を書いていた。
 そのなかでもいくつかの「定番」を決めていた。今回もそのなかの3つでいこうと思う。
 「俳句の精神」「天文と俳句」「俳諧の本質的概論」である。

■2017年10月オンライン「寅の日」

◆第172回オンライン「寅の日」 …10/06(金) 「俳句の精神」

◆第173回オンライン「寅の日」 …10/18(水) 「天文と俳句」

◆第174回オンライン「寅の日」 …10/30(月) 「俳諧の本質的概論」

俳句結社「寅の日」!!
 それは遠い遠い夢物語。
 如何に遠い道であっても、最初の一歩をはじめなければなにも始まらない。
 それも事実である。
 
 吟行「ヒガンバナ」はいつでかけようかな!?

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本日(2017/09/12)、第170回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼昨日の夕方、今にも雨が降ってきそうな気配であった。
 朝方は外出するためにあわただしくしていて、花芽が出はじめたヒガンバナを見に行っていなかった。目を離しているあいだに花茎がスルスルと伸びてきているのではと気がかりだったので、薄暗くなったなか見に行った。
 やっぱりそうだ!!
花茎は伸び、赤い部分が頭巾からはみ出してきていた。地面から顔を出した花芽の数も圧倒的に増えていた。
 やがて雨が降ってきた。
 この雨があがればさらに…。
▼本日(2017/09/12)は、第170回オンライン「寅の日」である。
9月に読むのは「科学と文学」一本である。
だから9月のテーマも そのものズバリ 「科学と文学」でいく。
その一回目が本日である。

◆本日(2017/09/12)、第170回オンライン「寅の日」!!#traday

●「科学と文学」(1)(青空文庫より)

▼私はずっとずっとこの文章が気になっていた。
 だからオンライン「寅の日」のなかでも繰り返しとりあげ読み解きに挑戦していた。
 寅彦が亡くなる前々年(昭和8年)に書かれたこの文章は科学者・寺田寅彦の集大成とも読み取れた。
 鎌田浩毅氏流に言えば
 
 「寺田寅彦を「活用」する」(鎌田)ためのヒントがここにある!!

 と思っていた。もちろん同じ「活用」すると言っても、鎌田氏と私とではレベルがまったくちがうだろうが、それも承知のうえでやっぱりこう言いたいのだ。
▼今回の読み解きはちょっとかわったかたちで挑戦してみようと思う。
 まず最初に文章全体を俯瞰してみよう。
 小見出しのフレーズを列挙するところからはじめてみる。

・緒言
・言葉としての文学と科学
・実験としての文学と科学
・記録としての文学と科学
・芸術としての文学と科学
・随筆と科学
・広義の「学」としての文学と科学
・通俗科学と文学
・ジャーナリズムと科学
・文章と科学
・結語

 どこから読んでも面白い気がしてきた。
 どんな文脈で寅彦を読むか。
 それはひとそれぞれだろう。またそれに従って、寅彦の「活用」方法もそれぞれだろう。
 ひとそれぞれちがうから面白い。
 だからこそ学び合うに値するのだろう。
 私は元祖サイエンスコミュニケーターとしての寅彦の「活用」を考えている。

 今回は緒言のなかから一文だけを引用させてもらおう。

全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。

(つづく)

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本日(2017/08/31)、第169回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼8月が終わる!!
 今、あらたな「雲見」定点観測地を模索していた。アメダスを画像内におさめることのできる現在の定点は大のお気に入りだが、物理的に不可能となれば変更せざるを得ないのだ。
 
 9月が明日からはじまる。本格的台風上陸シーズンである。

▼本日(2017/08/31)は、第169回オンライン「寅の日」である。
 8月の「寅の日」のテーマ
・寅彦と「風」
 であった。これまでの2回は海陸風を中心としたものを読んだ。
 今回は「風」のなかでも特筆すべき台風に関する「颱風雑俎」を読む。

◆本日(2017/08/31)、第169回オンライン「寅の日」!!#traday

●「颱風雑俎」(青空文庫より)

▼寅彦最晩年のエッセイである。
 これまでに鳴らし続けてきた警鐘「天災は忘れた頃に来る」の考えがバークボーンとしてあるように思えた。
 昭和9年9月の「室戸台風」についての話からはじまっていた。
 話は多岐にわたっているが、私が注目した点は前回と同じく3つである。

 ひとつめは「相地術」である。

昔は「地を相(そう)する」という術があったが明治大正の間にこの術が見失われてしまったようである。颱風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に颱風も地震も消失するかのような錯覚に捕われたのではないかと思われるくらいに綺麗に颱風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。
このように建築法は進んでも、それでもまだ地を相することの必要は決して消滅しないであろう。

私流に読み解けば、
「自分が地理的・地形的にみてどんなところに住んでいるか」を把握することが、防災減災の第一歩ということだろうか。

 ふたつは「理科教育」についてである。

これに限ったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型にはいって分りやすいことをわざわざ分りにくく、面白いことをわざわざ鹿爪(しかつめ)らしく教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直観の力を利用しないで頭の悪い大人に適合するような教案ばかりを練り過ぎるのではないかと思われる節もある。これについては教育者の深い反省を促したいと思っている次第である。

長年まがりなりにも理科教育に携わってきた人間としては反駁したい気分でいっぱいである。
 でも少しそうかもしれないと納得するところもあるというのが正直なところだ。

▼3つ目は「事実の観測」についてである。

 颱風のような複雑な現象の研究にはなおさら事実の観測が基礎にならなければならない。それには颱風の事実を捕える観測網を出来るだけ広く密に張り渡すのが第一着の仕事である。
  

 「事実の観測」があってこその「科学的」である!!
 寅彦がこう言ってから82年経った。「事実の観測」もずいぶん進化しただろう。
 「事実の観測」から得た情報に敏感であろう。
 
 さあ、今年の9月はどんな台風が…?
 15号はどう動くのだろう?   

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