本日(2019/10/20)、第236回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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本年の5月、私は根岸の子規庵を訪ねた。
 そのとき、糸瓜の種子5粒を「おすそ分け」してもらった。半信半疑ながら5月の末にその5粒を蒔いた。
 4粒が発芽した。実は糸瓜をきっちりと育てるのは、はじめての経験であった。試行錯誤の連続だった。
 やがて大きな糸瓜がひとつできた!!
 これで、今年は大満足!!と思っていたら、次々と巨大な糸瓜ができてきた。
 「糸瓜忌」を一ヶ月も過ぎた。今も巨大な糸瓜が10個以上ぶらさがっていた。
 さて、これからどうしたものやら ?(゜_。)?(。_゜)?
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▼本日(2019/10/20)は、第236回オンライン「寅の日」である。
 10月は「科学と文学」を2回連続して読むことにしていた。本日はその2回目である。
 今回をもっていったん終りとする。

◆本日(2019/10/20)、第236回オンライン「寅の日」!!

●「科学と文学」(2)(青空文庫より)

▼寅彦の「活用」方法をみつけること!!
 それが私がオンライン「寅の日」を続ける究極の目的だった。
 結論から言うと、この「科学と文学」にこそ、最大のヒントがあると思っていた。

 前回は、次なる文章を引用させてもらうことで終えていた。

 そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。

 今回も同様の主旨の文章を連続して引用させてもらおう。
 

科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。

これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたその考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人(しろうと)にもおもしろくまた有益なものが少なくない。

それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。

これは何か!?
そうだ!! これぞ科学者に向けた「随筆のすすめ」なのだ!!

同時に寅彦が多くのすぐれた随筆を遺してくれた所以でもあるのだ!!


▼ここに寅彦の本意があると読み解いただけでは、私の究極の目的のヒントは見えてこない。
 「科学者」でない私が言うのもおこがましいが、私も「随筆」を書きたいのだ!!
 そのヒントをさがしていたのだ!!

  科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。
 それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。
 これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。

このあたりに「ヒント」がありそうな気がするのだが…

やがて、私は「子規庵の糸瓜物語」を書きたいのだ!!

 大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから30週目だった。
 「私の大賀ハス物語」も書きたいな。大賀ハスと私は同い年だった!!
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2019年11月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼オンライン「寅の日」をはじめたのを機に、土佐に寺田寅彦を訪ねる旅もはじめた。
 その旅を勝手に、「土佐の寅彦」詣とよんでいた。
 「土佐の寅彦」詣は、今年の春で10回目だった。そして、この11月、11回目の詣にでかる予定だ。
 「友の会」秋季研究会参加が目的である。

 <寺田寅彦記念館友の会秋季研究会>(「友の会」HP 掲示板より)
・ 日時 令和元年11月24日(日)午後1時30分から
・場所 寺田寅彦記念館
・講師 伊東喜代子さん 寺田寅彦記念館友の会幹事(同館管理人)
・演題 「寺田寅彦邸の花に想う」
・内容 寺田寅彦記念館に咲く草花・樹木などを、関連する寺田寅彦の随筆とともに紹介し、寺田寅彦に思いをはせる。

 春に訪ねたときの草花・樹木はどうなっているだろうか楽しみである。
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▼2019年11月のオンライン「寅の日」の計画を考える時期が来ている。
 11月のテーマは、上記の研究会にちなみ
◎「寅彦と草花・樹木」
としたい。寅彦の随筆で少しでも予習をして、研究会に向かいたい。
 11月は3回ある。

■2019年11月オンライン「寅の日」
◆第237回オンライン「寅の日」 …11/01(金)
◆第238回オンライン「寅の日」 …11/13(水)
◆第239回オンライン「寅の日」 …11/25(月)

▼そんなつもりで、寅彦が書き残してくれた草花・樹木などに関する随筆をさがしていて驚いた!!
 実に多くの該当作品が!!
 どの作品もが、ひと味もふた味もちがう寅彦ならではの観察眼をもって語られていた。迷った末に次の三作品に決めた。
「花物語」 「庭の追憶」 「どんぐり」である。

■2019年11月オンライン「寅の日」

◆第237回オンライン「寅の日」 …11/01(金)「花物語」(青空文庫より)

◆第238回オンライン「寅の日」 …11/13(水)「庭の追憶」(青空文庫より)

◆第239回オンライン「寅の日」 …11/25(月)「どんぐり」(青空文庫より)

▼寅彦の「観察眼」もさることながら、「文章力」にも魅了されてしまう!!
 
 以下は私のきわめて勝手な都合だが、上記の研究会参加を、俳句結社「寅の日」立ち上げの機会ととらえたい。
 寺田寅彦記念館の庭で俳句結社「寅の日」の吟行!! 
 なんて なかなか面白い展開になるかも。
 益々楽しみである!!

 ゆっくり ゆっくり 急ごう。

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本日(2019/10/08)、第235回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼あれっ!?
いつの間にマメの実になってしまったのだ!!
昨日の朝、このアタリマエにいたく感動してしまったのだ。
クズはマメ科の植物、だからあのあでやかな花穂ができたあとにマメの実ができる。アタリマエすぎるほどアタリマエのこと!!
それに毎日、朝の散策で目にしていたはずではないか!!
でもやつぱり、私は昨日の朝はじめて、このアタリマエを「発見」したんだ!!
ふっと思った。
あの人だったらこの「発見」をどんな文章にしただろう?
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▼本日(2019/10/08)は、あの人の文章を読む日だ。第235回オンライン「寅の日」である。
 10月2回に分けて読むのは、またまた長編の「科学と文学」である。
 なぜまたしてもここんな長編を読むのかはおいおいに語っていこう。

◆本日(2019/10/08)、第235回オンライン「寅の日」!!

●「科学と文学」(青空文庫より) 

▼なんとオンライン「寅の日」で、この「科学と文学」を読むのは7回目である。8年目にして7回目ということは、ほぼ毎年一回は読んでいるということである。
 なぜこんな長編随筆にこだわるのか?
 答えは2つある。
 (1) この文章が好きである!!
 (2) 寅彦「活用」のヒントがここにある!!
 詳細は、のちほど。
 
 長編だから小見出しだけリストアップしてみる。
・緒言
・言葉としての文学と科学
・実験としての文学と科学
・記録としての文学と科学
・芸術としての文学と科学
・文学と科学の国境
・随筆と科学
・広義の「学」としての文学と科学
・通俗科学と文学
・ジャーナリズムと科学
・文章と科学
・結語

▼いつも「反省」していることがある。
 引用ばかりが多くなって、自分自身の「文脈」で読み解きができていないことだ。
 今回はできるだけ引用をひかえることに挑戦してみる。

 まず引用するのは「緒言」にある次の言葉である。

 もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。

 これは一貫したスタンスであった。
 多様な複眼的視点で語ってはいるが、けっして軸足を「科学者」からそらすことはなかった。

 次が私がもっとも気に入っている言葉だった。「文学と科学の国境」のなかにあった。

顕微鏡で花の構造を子細に点検すれば、花の美しさが消滅するという考えは途方もない偏見である。花の美しさはかえってそのために深められるばかりである。花の植物生理的機能を学んで後に始めて充分に咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることもできるであろう。

 ここに寅彦の本意がある!!そんな気がするのだがどうだろう。
 たしか中谷宇吉郎も「お気に入り」とどこかで書いていたような。
 最後にもうひとつだけ引用させてもらおう。それは「文学と科学の国境」の最後に出てくる言葉だ。

 そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。

 ここが次回のミソである。
 今回はここまでとしたい。
(つづく)

 
 
  

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本日(2019/09/26)、第234回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼子規庵の糸瓜は、台風の強風にもめげず元気だ!!
 7~8個の大きな糸瓜の実を収穫できそうだ。うまく種子も回収できれば…

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▼本日(2019/09/26)は、第234回オンライン「寅の日」である。
 8月、9月と続けて読んできた「ルクレチウスと科学」の最終回である。
 寅彦はなぜかくも熱くルクレチウスを語ったのか!?
 その謎解きはどこまで進んだだろう?
 そして、私自身の「原子論」「原子論的物質観」とは!?の課題はどこまで?

◆本日(2019/09/26)、第234回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(5)(青空文庫より)

▼最終回の今回は、六章と後記を中心に読む。
 六章のはじめに「天災は忘れられたる頃来る」の警鐘を鳴らしつづけて来た寅彦ならではの文章が出てくる。

  彼が雷電や地震噴火を詳説した目的は、畢竟(ひっきょう)これら現象の物質的解説によって、これらが神の所業でない事を明らかにし、同時にこれらに対する恐怖を除去するにあるらしい。これはまたそのままに現代の科学教育なるものの一つの目的であろう。しかし不幸にして二十世紀の民衆の大多数は紀元前一世紀の大多数と比較してこの点いくらも進歩していない。たとえば今のわが国の地震学者が口を酸(す)くして説くことに人は耳をかそうとしない。

 さらに続けてこうも言っていた。
 
そうして大正十二年の関東地震はあれだけの災害を及ぼすに至った。あの地震は実はたいした災害を生ずべきはずのものではなかった。災害の生じたおもなる原因は、東京市民の地震に対する非科学的恐怖であったのである。科学は進歩するが人間は昔も今も同じであるという事を痛切に感じないではいられない。同時に今の科学者がルクレチウスから科学そのものは教わらなくても、科学者というものの「人」について多くを教わりうるゆえんをここにも明らかに認めうると考えるのである。

 そして最後に興味深い言葉で結んでいる。
ルクレチウスはおそらく、この後にさらに何物かを付加する考えがあったのではないか。私はこの書に結末らしい結末のない事をかえっておもしろくも思うものである。実際科学の巻物には始めはあっても終わりはないはずである。

▼最後の「後記」に、これまでのエキスをすべて詰め込んでいる!!そんな気がしてくるのである。
 少し引用がたくさんになるが、私自身が少し「まとめ」をするためと思いつづける。スミマセン<(_ _)>
 まずルクレチウス礼賛の言葉を聞いてみよう。

 ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。

 現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。
 現代の科学がルクレチウスだけで進められようとは思われない。しかしルクレチウスなしにいかなる科学の部門でも未知の領域に一歩も踏み出すことは困難であろう。

 ここで寅彦はたいへん興味深い「作業仮説」を提案していた!!

 今かりに現代科学者が科学者として持つべき要素として三つのものを抽出する。一つはルクレチウス的直観能力の要素であってこれをLと名づける。次は数理的分析の能力でこれをSと名づける。第三は器械的実験によって現象を系統化し、帰納する能力である。これをKと名づける。今もしこの三つの能力が測定の可能な量であると仮定すれば、LSKの三つのものを座標として、三次元の八分一(オクタント)空間を考え、その空間の中の種々の領域に種々の科学者を配当する事ができるであろう。

L…ルクレチウス的直観能力
S…数理的分析能力
K…器械的実験より系統化・帰納する能力
面白い!! 
あなたはどこに位置するだろう? 私はどうだろ?

寅彦の示唆することはこのあたりにあるようだ!!

以上の譬喩(ひゆ)は拙ではあるが、ルクレチウスが現代科学に対して占める独特の位地を説明する一助となるであろう。
 誤解のないために繰り返して言う。ルクレチウスのみでは科学は成立しない。しかしまたルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展を遂げ得ない。

 最後の寅彦からの忠告・戒めは真摯に受け止めたい。
 私は科学の学生がただいたずらにL軸の上にのみ進む事を戒めたく思うと同時に、また科学教育に従事する権威者があまりにSK面の中にのみ学生を拘束して、L軸の方向に飛翔(ひしょう)せんとする翼を盲目的に切断せざらん事を切望するものである。

ここではいったん終りとするが、Facebook版・サイエンスカフェ「寅の日」ではつづけて議論を深めていきたい。
二ヶ月つき合ってくださったみなさんありがとうございます。では、また… <(_ _)>

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2019年10月のオンライン「寅の日」は #traday #寺田寅彦

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▼垂れる稲穂に真っ赤なヒガンバナは最高にお似合いだ!!
 やっぱりお彼岸には間に合った!! 
 例年の花芽「初見」の場所ではないところに、次々と開花しようとしていた。
 もちろん「初見」定点でも…
 
 今日(2019/09/20)は「彼岸入り」、ヒガンバナ散策に出かけてみよう。
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▼2010年10月のオンライン「寅の日」の計画を立てる時期が来ていた。
オンライン「寅の日」は、8年目に入ってからは、7年の歩みのなかで繰りかえし読んできた寺田寅彦「○○随筆」十選を中心に読んできた。
・4月、5月… 寺田寅彦「科学(理科)教育」十選!!
・6月… 寺田寅彦「俳句入門」十選!!
・7月… 寺田寅彦「気象入門」八選!!
・8月、9月… 「ルクレチウスと科学」
 10月は、少しちがう視点で何を読むか検討してみたい。10月は2回あった。

■2019年10月オンライン「寅の日」
◆第235回オンライン「寅の日」 …10/08(火)
◆第236回オンライン「寅の日」 …10/20(日)

▼寺田寅彦「○○随筆」十選のなかには入れてはいないが、とても気に入り繰りかえし読んできた作品がある。
 「科学と文学」である。すでに6回も読んできていた。毎年一回は読むのが恒例化しつつあった。
 10月はぜひこれを読んでみたい。とても長編であるから、2回に分けて読みたい。

■2019年10月オンライン「寅の日」

◆第235回オンライン「寅の日」 …10/08(火) 「科学と文学」(1)(青空文庫より)

◆第236回オンライン「寅の日」 …10/20(日) 「科学と文学」(2)(青空文庫より)

▼俳句結社「寅の日」も立ちあげ、オンライン「寅の日」も、12日一度だけ巡って来る「寅の日」だけに限定せずに、より日常的な交流をすすめたい!!
 その願いを少しずつでも「かたち」にするために、
◆Facebook版・サイエンスカフェ「寅の日」
 をはじめている。
 「寅の日」に興味ある人の参加をお待ちしています。<(_ _)>
 「こんなのあるといいなあ…」は、あなたが参加してぜひ実現させてください!!
 
  
 

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本日(2019/09/19)、俳句結社「寅の日」発足!! #traday #寅の日

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▼5月に訪問した子規庵で5粒の糸瓜の種子を「おすそ分け」してもらった。
 5/30に種子を蒔いて4粒が発芽した。
 そして、なんとか本日(2019/09/19)に間に合うようにひとつの糸瓜の実が大きく育った。
 育った実はひとつだけではなかった。
  のびた蔓の先の方に、第二、第三の実も大きくなろうとしていた。
 アリガタイ!!
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▼本日(2019/09/19)は、その糸瓜忌・子規忌である。
 正岡子規は1902年(明治35)、9月19日午前1時頃次の「絶筆三句」を残して永遠の眠りについた。

 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな

 痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず

 なんと享年三十四歳十一ヶ月であったという。
 なんと短い生涯であることか!!
   なんと成した仕事の偉大なことか!!
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▼実は、以前からこの日にと決めていた。

◆俳句結社「寅の日」発足!! 

 を。
 いつの日かその「準備」をして、「計画」を立てて、そんなこと思っていたら終わってしまいそうだ!!
 ここは強引に出発してしまおうと思う!!
 「準備」も「計画」もあとからでもいいではないか。
 この日を選んだのは、もちろん少しでも偉大なる子規にあやかりたいという思いからである。
 それに、また「寅の日」は子規とはまったく無縁というわけでもなかった。
▼まったくのシロウトだ。
 書いているうちに少し気恥ずかしくなってくる…(^^ゞポリポリ
 でも続ける!!
 俳句結社「寅の日」、師事するのは寺田寅彦!! まずは

◆俳句の精神(青空文庫より)
◆天文と俳句(青空文庫より)

を読んでみよう。

(つづく)  

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本日(2019/09/14)、第233回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼少しせっかちになっていた。
 「なんぼなんでも遅すぎる!!」と。
 ヒガンバナ「花芽」の初見がまだだった!!雨もたっぷり降り、いっきょに秋めいていた。地温ももう臨界点には達しているはず!?
 昨日(2019/09/13)の夕方、例年の初見観察地を離れ、少し遠出をしてみた。
 ここ何年か自然結実ヒガンバナを観察している群生地(福崎)である。

 そこには、やっぱり咲いていた!!
 浮き株周辺よりスタンバイOKの「花芽」も多くある!!
 いやすでに満開もあるではないか!!走りヒガンバナは少し「ワラベノカンザシ」っぽいものもある。
 さあ、いよいよはじまる2019年ヒガンバナ観察!! きっと師走の風が吹くまでになるだろう。
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▼本日(2019/09/14)は、第233回オンライン「寅の日」である。
 今月も先月に引き続き「ルクレチウスと科学」を読んでいる。先月からカウントすると4回目である。
 今日は、第4章、第5章を中心に読む。

◆本日(2019/09/14)、第233回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(4)(青空文庫より)

▼第4章に入って、寅彦の熱い語り口調は少しトーンダウンする。

 以上紹介したところによって、私はルクレチウスの根底に存する科学的精神の一般的諸相と、彼の元子説のおもなる前提ならびにその運用方法の概念だけを不完全ながら伝えることができたように思う。以下の三巻に現われるこれらの根本的なものは、多く述べきたったものの変形であり敷衍(ふえん)であるとも見られる。

 要するに三巻までの繰りかえしが続くので、少し省略していこうというわけである。
 また、これまでも言っていたが、こんな「ことわり」を繰りかえす。

 また一方、以下各巻に現わるる具体的の自然現象の具体的説明となれば、これらはそのままでは当然現在の科学に照らした批判に堪えうるものではない。

 それにしても、「光」「音」についてたいへん興味深い論理が展開されている。
 今一度自らに問いたい。
 「ルクレチウスにまけない観察眼が我にあるだろうか?」と。
 寅彦が教育方針への疑問も投げかけている。ひょっとしたら今も有効なのかも!?

 多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。

▼第5巻に入って、ルクレチウス自身も少し方向転換したようである。
 一読しただけではちんぷんかんぷんの「観念的」な言葉がならぶ。しかし、ルクレチウスの本意とはこのあたりにあるのかもしれない。

 第五巻の初めにおいて、ルクレチウスは、さらに鋒先(ほこさき)を取り直して彼の敵手たる目的論的学説に反抗している。そうして神を敬遠して世界と没交渉な天の一方に持ち込んでいる。
一は公理から演繹えんえきし一は事実から帰納するのである。この点からもルクレチウスのほうが自然科学的である。

たいへん興味深い展開もある。

最も興味あるは宇宙の生成に関する開闢論的(コスモゴニカル)考察である。元子的渾沌(こんとん)の中から偶然の結合で分離析出が起こるという考えは、日本その他多くの国々の伝説と同様であるが、それを元子論的に見た点がはなはだ近代的であることは前述のとおりである。

 この方法論は、実は、はなはだ科学的なものである。彼の考えを敷衍(ふえん)して言えば、経験によって明確に否定されないすべての可能性は、すべて真でありうることを認容してかからねばならないというのである。この事は意外にもかえって往々にして現時の科学者によって忘却される。精密という言葉、量的という標語を持ち出す前にまず考えなければならない出発点の質的のオルターネティヴが案外にしばしば粗略に取り扱われる。その結果は、はなはだしく独断的に誤れる仮定に基づいためんどうな数学的理論がひねり出されたりするような現象が起こる。そういう意味でルクレチウスのこの態度は、むしろ今の科学者に必須(ひっす)なものと考えなければならぬ。

これなど、自然科学の方法に関する重要な提言で、現代にも通用するものである。
 トーンダウンしたとは言え、寅彦はやっぱり熱く語っているのである!!

(つづく)


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中谷宇吉郎 雪の科学館は最高に面白かった!! #中谷宇吉郎 #雪の科学館

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▼加賀まで来ていて、この機会をのがすわけにはいかなかった。

◆中谷宇吉郎 雪の科学館

である。これまでにも何回か訪れ、とても楽しませてもらっていた。
 オンライン「寅の日」の関係から、5年ほど前よりこちらの「友の会」にも入れてもらっていた。「友の会」の会員なってからも、ぜひ行きたいと思いながらも訪問の機会をのがしていた。

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▼それにどうしても、今回の機会に訪問したいわけがあった。それは、現在、館では

◆山田功写真展「彩氷」 2019年7月4日(木)~10月8日(火)

が開催されていた。開催期間がもう後一ヶ月を切ってしまった。
 今回の機会をのがすと、見せてもらわないうちに終わってしまう。透明なはずの氷が、偏光板二枚に挟んで観察することにより、氷の結晶がみごとな彩りを帯びて見えるのだ!!
 みごとな写真群を生で見せてもらいたかった。とりわけ、そのなかでも「ストロー氷」ができたときの画像が見たかった。
 昨年冬、私自身も2度もこの不思議な「ストロー氷」を見ていた。
 数枚の「ストロー氷」の画像を見せてもらうことにより、その不思議の謎解きができた!!
 面白い!! ナルホド(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

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▼これだけでも大満足だった。
 今回は、徹底して時間をかけて楽しませてもらおうと、開館と同時ぐらい入館した。
 まずはじめに
・「科学するこころー中谷宇吉郎の世界」(25分)
 これが実にいい!! 宇吉郎のすべてがわかる映画だ!! 必見だ!!
 次に
・雪と氷の実験観察 4つ
 (1)人工雪(ムライ式)
 (2)ダイヤモンドダスト
 (3)チンダル像
 (4)氷のペンダント
 朝が早かったので、たったひとり私のためだけに実験をしてもらった。
 超ゼイタク!!「過冷却水」のはなし、シャボン膜で氷の結晶を掬う実験、チンダル像の実験が興味深かった。
 チンダル像の実験、まだ私自身家でやって成功していなかった。また、挑戦してみようという気になってきた。深謝<(_ _)>
展示の方も、時間をたっぷりかけて繰りかえし繰りかえし見せてもらった。
 やっぱり私がいちばん気になるのは寅彦がらみのところだった。
 寅彦から譲り受けたというネクタイが展示してあった。
 年譜を見ていて気づいた。寅彦が亡くなったとき宇吉郎は35歳だった!!若い!!
 宇吉郎にとって寅彦という存在は!?
 寅彦にとって宇吉郎という存在は!?
 また、オンライン「寅の日」でもとりあげたいテーマでもある。
▼館内を存分に楽しんだ後、中庭の「グリーンランド氷河の原」を見せてもらった。
 60tもの石を現地から運び込んでの庭はインパクトがあった!!
 「人工霧」もなかなかリアルだ。
 柴山潟を一望できるティルーム『冬の華』で、スィーツセットの珈琲を飲んだ。
 ちょうど柴山潟に噴水があがっていた!! カーテンまであげてもらって絶景を楽しませてもらった。

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 バスの時刻まで少し時間があった。
 直射日光がきびしいなかではあったが、片山津温泉まで歩いてみた。
 片山津温泉には、宇吉郎の生誕地に「中谷宇吉郎誕生の碑」「宇吉郎小径」があると教えてもらったからだ。
 ここでも、また多くの人の世話になって、そこに行き着いた。
 はじめてのところというのは、近くまで行っいてもわからないものである。
 お世話になった方々に深謝 <(_ _)>

 もう存分に宇吉郎を楽しんだ一日となった!!

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本日(2019/09/02)、第232回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼ヒガンバナの月がはじまった!!
 庭のヒガンバナは少々「浮き株」気味だ。花芽が顔を出し花茎が伸び始める気配はまだなかった。
 走りヒガンバナは、もうどこかに顔をだしているのだろうか!?
 
 ヒガンバナの月のはじまりと同時に、とても哀しい情報が入ってきた。
 これが確かであれば… 
▼本日(2019/09/02)、第232回オンライン「寅の日」である。
 9月のオンライン「寅の日」「ルクレチウスと科学」を続けて読むことを決めていた。
 今回は、第二章・第三章を中心に読む。

◆本日(2019/09/02)、第232回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(3)(青空文庫より)

▼ここまでで感じている結論からいく。
 人は自らの「文脈」にひきつけて他人の「文脈」を読み解くことしかできない!!
 私自身は、私の「文脈」にひきつけてなんとか、寅彦のそしてルクレチウス「文脈」を読み解くために 「原子論的物質観と授業」という連載まではじめてしまった。
 残念ながら、私の「文脈」は、寅彦の「文脈」に追いついていなかった。
 二章と三章では、ちょっとニュアンスがちがっていた。
 二章では寅彦も熱くルクレチウスを礼賛してように読めた。
「物質不滅説」

 元子は結合するが、その結合は固定的ではなく、不断に入れ代わり、離れまた捕われる。eternal give and take である。しかしその物質の総和は恒久不変であると考える。ここの考えは後代の物質不滅説を思わせる事はだれも認めるであろうが、また見方によっては、たとえば溶液分子のようなものの化学的平衡を思わせる何物かを含んでいるからおもしろい。

「三態変化」
 元子は互いに衝突する。その速度は一部は固有のものであり、一部は衝突によって得るものである。衝突の結果はいろいろである。ある元子はその複雑な形状のために互いに引っ掛かって結合して剛(かたい)物を造るが、あるものは反発して柔らかい物質となりあるいは全然離れ合ってしまう。これは言わば固液気三態の原子構造の説明と見られる。

「ブラウン運動」
 日光に踊る微塵(みじん)の有名な譬喩(ひゆ)の出て来るのはこの条である。私のおもしろいと思ったのは、元子の寄り合ってできる細粒が、不可視的元子の衝動によって動かされて、粒全体としての運動を生ずるという考えが述べてあることである。それがちょうどブラウン運動の記述に相当する事である。

「光の速度」
「物体の落下」
「分子生物学」(!?)
「百年後の整理学」
「近代科学精神の発現」 
「原子数」「原子模型」
 等などとつづき、とどまるところをしらない!!
 しかし、寅彦はすべてを闇雲に礼賛しているのではなかった。
 二章最後にこう書いた。
この条下にこの世界の誕生、生長、老衰、死滅に関することも述べられている。これらを省略して直ちに第三巻に移ろう。

寅彦も「省略」するところは省略し、自らの「文脈」に沿って読み解こうとしていたのだ。
▼三章では、そのスタンスはより顕著になっていた。
三章では、ぜひとも引用させてもらいたい一文があった。
 私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟(ひっきょう)「わかりやすい言葉に書き直した直観」であり、直観は「人間に読めない国語でしるされた科学書の最後の結論」ではないか。ルクレチウスを読みながら私はしばしばこのような妄想(もうそう)に襲われるのである。

 ここに「ルクレチウスと科学」のひとつの結論が書かれているような気がするのである。

 もう一度言う!!
 私は私の「文脈」にひきつけてしか、寅彦の「文脈」を読み解けない!!

(つづく)

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本日(2019/08/21)、第231回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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▼「雲見」の像の向こうの西の空に青空がやっと見えてきた!!
 そのとき日は沈みはじめていた。
 このまま一日の「雲見」終わるかと思っていた。とんでもなかった!!
 すっかり寝入っていた。ところが真夜中近く、この夏、最大のカミナリにたたき起こされた。
 もうすぐ近くに落雷したのではないかと思わせるものだった。雷雨もすごかった!!
 しばらく真夜中の「雲見」をして再び眠った。

 「雲見」をしながら、つくづくと考えた!!
 2000年以上も前に「万物が原子からできている」なんてどこから発想したのだろう!?
 またまたあの人のコトバを借りよう。
 「ねえ君、不思議だと思いませんか?」
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▼本日(2019/08/21)は、第231回オンライン「寅の日」である。
 8月のテーマは「ルクレチウスと科学」である。本日で2回目である。
 一回目で「緒言」を読んだだけだった。そこで、すでに9月も続投を決めた。
 今回は、第一章に焦点をあてて読んでみることにする。

◆本日(2019/08/21)、第231回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(2)(青空文庫より)

▼正直に言うが、まだ2000年以上前にこの詩が書かれたということが信じられないでいた。
 ポンコツ頭をフル回転させて考えるが、やっぱり納得いかない!!

 現在の物理学における物質不滅則、原子の実在はだれも信ずるごとく実験によって帰納的に確かめられたものである。二千年前のルクレチウスの用いた方法はこれとはちがう。彼はただ目を眠りふところ手をして考えただけであった。それにかかわらず彼の考えが後代の学者の長い間の非常の労力の結果によって、だいたいにおいて確かめられた。これははたして偶然であろうか。私はここに物理学なるものの認識論的の意義についてきわめて重要な問題に逢着(ほうちゃく)する。約言すれば物理学その他物理的科学の系統はユニークであるや否やということである。しかし私は今ここでそういう岐路に立ち入るべきではない。ただルクレチウスの筆法を紹介すればよい。
 

 そこのところが知りたいという気もするのだが…\(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ
 「ルクレチウスの筆法」に話をすすめよう。

 今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。
そしてここに述べられたアルファベットが寄り集まっていろいろな語を作るように、若干の異種の原子がいろいろに結合していろいろのものを作るという彼の考えはほとんど現在の考え方と同様である。のみならずおもしろい事には現在われわれは原子の符号にアルファベットを用い、しかもまたいろいろの物質をこれら符号の組み合わせで表わすのである。これは全然ルクレチウスの直伝である。
 元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
 物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。

▼読めば読むほどルクレチウスの凄さが見えてくる!!
 あわせて最初のシロウトの不思議が頭をもたげてくる。
 ついに、にわかには私には理解困難な領域まで話が及んでいく。

しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟(ひっきょう)時に関する従来の考えの曖昧(あいまいさ)に胚胎(はいたい)しているのではないかと考えられる。時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。
 ともかくも物質元子に、物体と同様な第二次的属性を与える事を拒み、ただその幾何学的性質すなわちその形状と空間的排列とその運動とのみによって偶然的なる「無常」の現象を説明しようとしたのが、驚くべく近代的である。
 私は近代物理学によって設立された物質やエネルギーの素量の存在がいわゆる経験によった科学の事実である事を疑わないと同時に、またかくのごとき素量の存在の仮定が物理学の根本仮定のどこかにそもそもの初めから暗黙のうちに包含されているのではないかということをしばしば疑ってみる事がある。われわれが自然を系統化するために用いきたった思考形式の機巧(メカニズム)の中に最初から与えられたものの必然的な表象を近ごろになっておいおい認識しつつあるのではないかという気がするのである。ルクレチウスは別にこの疑問に対してなんらの明答を与えるものではないが、少なくも彼は私のこの疑いをもう少し深く追究する事を奨励するもののように見える。
科学は畢竟(ひっきょう)「経験によって確かめられた臆断(おくだん)」に過ぎないからである。
 この論議の中に、熱は元子の衝突運動であるという考えや、元子排列の順序の相違だけで物の変化が生じるというような近代的の考えも見えている。
ルクレチウスが今の科学に照らして最も不利益な地位に置かれるのは、彼がここで地を平面的に考え、「上」と「下」とを重力と離れて絶対的なものに考えている事である。
 この物質量の無限大を論ずる条下に現われているもう一つの重要な考えがある。元子が集合して物を生ずるのは、元子の混乱した衝突の間に偶然の機会でできあがるものであって、何物の命令や意志によるのでもない。そういう偶然によって物が合成されうるためには無限の物質元子の供給を要するというのである。この「偶然」の考えも実に近代の原子説の根底たる統計力学の内容を暗示するように見える。偶然のみ支配する宇宙ではエントロピーは無際限に増大して死滅への道をたどる。

もうピックアップするだけが精一杯で、とてもじゃないがなかみの理解まではいかない。(^^ゞポリポリ
少なくとも今月中ぐらいは反芻作業を繰りかえしてみようと思う。

(つづく)

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