「常民の科学」は、今

Dscf2837▼11月が始まった。11月は【理科の部屋】の誕生月だ。16年前の1993年11月23日に@nifty(当時のNifty-serve)教育実践フォーラムの一会議室としてスタートした。考えてみれば、もう一昔、ふた昔前の話だ。それから、16年、この11月になると、この【理科の部屋】のことを意志的に話題にしてきたように思う。しかし、今年の11月は、なにかちょっとこれまでとちがったものを感じている。昨日で大賀ハスの植え替えから31週目であった。
▼今日は、かねてより計画していた「地域」を歩くことにしている。天気が心配だがなんとか小雨程度なら決行を考えている。地域の自然から学ぶことはもちろんのこと、参加してくださる方から、あるいは講師をしてくださる先生からいっぱい「科学」を学びたいと思っている。「科学」を発見したいと思っている。地域の「昔ばなし」「伝承」を訪ねて歩くのであるが、必ずやそこにも聞いておきたい「科学」が存在すると思っている。
「常民の科学」これまたなつかしい響きすらある言葉だ。庄司和晃先生にも、ちょっとだけほめてもらった私の造語だ。最近は、自分でも使わなくなってしまった。
 この「常民の科学」を授業に取り入ることこそ、私のライフーワークにしたいと思ったこともあった。
「常民の科学」に何を学ぶのかについて、こんな文章を書いたこともあった。
 今読み返すと少し恥ずかしいところもあるが、今も本質的なところは考えがかわっていない。
 今、多用しているのは「等身大の科学」だ。
 「等身大の科学」と「常民の科学」との関係は
熊楠の科学、ファラデーの科学(もっと当時は科学者という言葉はなく、彼は「ナチュラル・フィロソファー」と考えていたようだが)とどうつながるのか。それはこれからの私のテーマでもある。
▼とりあえずは、今日は、現時点での私のセンサーをフル回転させて、一見、科学とは関係なしとみられそうなところに、「科学」を発見してきたい。
 さて、どんな「発見」があるやら、…o(^o^)o ワクワク
 

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「食べる」を科学する

Dscf7071ヒガンバナの花茎が枯れて朽ちていく。そして、「生産の季節」はますます本格化する。この季節にまだ立っている花茎があったら、それはまだ、実もどき、種もどきを有している可能性がある。そんな意味から言えば、「種」さがしの絶好期なのかも知れない。今朝の散歩は、ちょっと遠回りしてみよう。定点観測地のヒガンバナは、ソバの花をバックに元気だ。
▼「生産」できない動物たちは食べるという営みよってしか「生命」を維持できない。
だから、『動物の世界』の学習は
●動物の謎解きの方程式は「食べる」
からはじめた。「食べる」を追いかけていくと動物の世界が見えてくる。
これは、授業をすすめていくなかで、ますます実感しているところである。
▼ヒトもやはり動物である。あたりまえのことであるが、「食べる」という必要不可欠な営みを通して、ヒトの「生命」も見えてくるのかも知れない。
 あの『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一さんは『生命と食』(岩波ブックレット 2008.8.6)で、「生命は、絶え間なく分解と化合を繰り返す、ダイナミズムの中にあります。」と語ったあと、

食物とはすべて他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっています。だから自分の健康を考えるということは、環境のことを考えるということであり、環境のことを考えるということは、自分の生命を考えるということでもあるわけです。 
 
としめくくっている。
▼「食育」「環境教育」の重要性が叫ばれいる今日、そのベースにはしっかりとした「科学」がなければならい。
「食べる」という営みは、営々と人々が生活のなかで繰り返してきたこと、これがとぎれたことはない。そのなかで、人々は「知恵」を蓄積し、「文化」を創ってきた。例えば「医食同源」のことば象徴されるような「常民の科学」から、今こそ大いに学ぶべきなのではと思う。
 『動物の世界』後半「人の身体」の学習をすすめながら、今一度、「食べる」を等身大に科学してみたい。

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