「これから」の科学??『予定不調和』

Dscf7360▼「みどりの日」の昨日、私がもっとも注目した「みどり」は、大賀ハスの葉のみどりであった。それも、正規の「観察池」のものではなく、蓮根の植え替えを3月末にしたときに、第二候補以下のものの処理に困ってしまい、とりあえず近くの水瓶にほりこんでいたものの方である。何の処理をすることなく、雨水がたまったなかにほりこんである蓮根の方である。そこから、巻葉の芽はどんどん伸びてきていた。
 初夏を通り越して、真夏を思わせる太陽の日射しをいっぱいにあびて、いくつもの「みどり」は全開であった。水面は完全にかくれてしまっていた。「もっと、我に光を!」と叫びながら、我も我もと競い合う「みどり」がそこにあった。「みどり」のシステムのたくましさである。ここに納得のいく科学!!がある。
▼一方で、どうも納得のいかない科学と昨日、出会った。
最近、本を読むのは自らのコンテキストに沿ったものだけを読むようにしようと決意している。遅読の私には、やるべきことが多すぎて、本など読んでいる時間がないというのが正直なところなんである。
ところが、どうしても気になる本がいくつかある。なにかのきっかけがあれば読みはじめたい本たちである。
そのなかにこの一冊があった。
◆『予定不調和』(長神 風二著 DIS+COVERサイエンス2010.4.15) http://bit.ly/bchLtZ
である。
同じシリーズの『科学の正しい付き合い方』には、感動すらしていた。
だから、同シリーズのこの本が気にかかっていた。
著者のことは、内田さんと同じくecochemさんところのサイエンスカフェからだ。
私の知らない科学の世界を見せつけられたように思った。
・科学はまちがいなく文化である。
とそのとき思った。だから、ずっと気にしていた。Twitterでもフォローしていた。
▼昨日の「すきま時間」を利用して読み始めた。
読み始めると同時に、私は私の文脈のなかで、この春に卒業した生徒たちに課した卒業論文のことを思い出していた。実はその卒業論文のテーマになやんでいたことがある。
『これからの科学技術と私』
『科学技術とこれからの私』
どちらするかである。結局は同じことなんではないかと思われるかも知れないが、それは違う。
「これから」の位置によって、「科学技術」に主体があるのか、「私」に主体があるかの大きな違いがあるのである。等身大の科学を標榜する私は、結局、後者を選んだ。
出てきた卒業論文を読みながらその選択は正しかったと思った。
▼本にもどる、私はこの本に期待したのは、卒業論文でいうと前者の方であった。そんなことが書いてあるものと想像していたのである。
 『予定不調和』というタイトルだけから、そのようなものを期待していたのだ。タイトルは、反意を意味するのであり、実は
「予定調和」こそが科学なんだ!!
という主張なんだと勝手に思い込んでいた。
しかし、読み進めていくとどうもちがう主張があるようだ。
オムニバス風にどんどん展開される「これから」の科学のシナリオ!
次には、思っていたことが書かれているだろうと期待するが、いっこうにその気配はない。
私のなかでやがて、このシナリオ群に不協和音を奏で始める。
これは「私」には関係ない本なんだと思い始める。
そして、目次にもどった。
▼「目次」

予定不調和
サイエンスがひらく、もう一つの世界
序章 予定不調和?
第1部 競争の時代に
第2部 新しい環境と健康
第3部 意思のあるところ
第4部 問い直される【わたし】
終章 情報と技術の氾濫を泳ぎきるために

 この目次をあらためて見て驚いた。私が求めているものがちゃんとあるではないか。
不協和音ばかりが響くのに飽きてきた私は、第3部まで読んで、そこで停まりこれを書いている。
そうすると、第4部にそれがあることになる。
それは、このあとに期待しよう。そして問い返そう。
・「これから」の科学とは
・私にとっての「科学」とは
・未来に生きる生徒たちにとっての「科学」とは
・「これから」の科学と理科の関係は
・科学がひらく、「もうひとつの世界」とは

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2009年「私の読んだ本ベスト5」

Dscf4594▼2009年も、ついに後地球が2回転するだけになった。昨日には、年賀状も出し終えた。こんなにはやく出してしまうなんて、いつものろまの私に驚異的なことだ。年賀状を出しにいったついでにホームセンターによって、かねてより目をつけていた双眼鏡を買ってきた。前からもっていたものを職場がかわったりするなかで紛失してしまっていたのである。そこで、元旦の月食をみるために欲しかったのだ。
 年賀状をはやく出してしまった自分への「褒美」に買ってしまったのだ。ホームセンターで売っている程度のものだから、特別のものではない。でも星空・月みるとき、ちょっと欲しかったのだ。
 夕方になって、かなり大きくなってきた月をみて、「アタリマエ」に感動した。
「やっぱりほんとうに球だ!!」「元旦が満月だから、ずいぶんと丸くなっている!!」
思わず、それを画像におさめようと、デジカメを近づけて撮ってみた。
三脚もなんにもなし、手で支えてだ。そんなのうまく行くはずはなかった。でも楽しかった。
▼2009年の「私の重大ニュース」の方は、昨日までで終わっている。
もうひとつ例年やっていることがある。読んだ本のことである。この一年間のblogから拾いあげてみようと思う。
今度は、「重大ニュース」とちがって順番をつけてみよう。
題して「私の読んだ本ベスト5」である。
▼私は本読むときに、ちょっとだけ気にしている私なりの流儀をもっている。
ふたつある。
●本は、私の文脈のなかで読む。
●読む本は、「イモヅル式」にみつけていく。
 「消費」としての読書はまたちがうだろうが、「生産」としての読書では、こうありたいと思っている。

前置きは、これぐらにしてベスト5冊(正確には8冊)を本棚からひっぱり出してならべてみた。

【ベスト1】 『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著 みすず書房 2005.1.21)
 この本は、それこそ私の文脈で読むのにピッタリの本だった。ここで繰り返し語られている。「等身大の科学」「新しい博物学」こそ、私が求めていたものだ。これからこのふたつをより「私の場合は」にひきつけて模索していきたいと思っている。今年出会った本のなかでは飛び抜けてベスト1!!である。

【ベスト2】 ツイッター本4冊
   『仕事で使える!Twitter超入門』(小川浩著 青春出版社 2009.10.5) 
   『ツイッター 140文字が世界を変える』(コグレマサト+ いしたにまさき著 マイコミ新書 2009.10.20)
   『Twitter社会論』(津田大介著 洋泉社 2009.11.21)
   『Twitter革命』(神田 敏晶著 ソフトバンク新書 2009.11.24)

 私は、9/23にecochemさんのおすすめもあり、Twitterなるものはじめた。ちょうど世間でもTwitterが大ブレークしだした。それにあわせるように「ツイッター本」と言われるような本の出版があいついだ。
 登録はしたものの右も左もわからぬなかで、いろいろ試してみながら平行して、相次いで出てくる本に目をとおしてみた。この4冊、出版された順番に読んでみた。
 Twitterの面白さを、ちょっとずつ違ったかたちで書かれていた。Twitterの醍醐味については共通した事例があがっていた。それは当たり前のこと。語り口調に著者の思い入れのちがい、これまでの経験などが現れていてそれも面白かった。私の文脈で読むなら
・『Twitter超入門』は、用語のていねいな説明などから、タイトルのとおりだと思った。
・『140文字のが世界を変える』では、Twitterの可能性ということを考えるようになった。それから、Twitterが特別に新しいものでなく、Web、SNS、blogと地続きのものであることを感じさせてくれた。「これはパソ通回帰だ!!」と思い出したのは、この本を読んだ頃からである。
・『Twitter社会論』「tsudaる」の本家本元が書いた本、それだけにTwitterが使えるものであることを語るのに説得力がある。「tsudaる」は、ジャーナリストだけに有効なのでない。教育現場・研究においてもきわめて有効な手法である。著者の言う「リアルタイム性」「伝播力の強さ」などが、教育の問題と無縁であるわけがない。
・『Twitter革命』「今、なぜTwitterなのか」をいちばん熱く語っている本だ。変わるかも知れない未来を予感させる。

【ベスト3】 『動的平衡』(福岡伸一著 木楽舎 2009.2.25)
 私は、それこそイモズル式にこの著書を、昨年から読んでいる。いつしかその世界に惹きこまれいくその文体のみごとさな感動すらする。「動的平衡」の概念についても、著者がずっと語ってきているところであるが、このタイトルのままが本になったら読まずにおれなかった。「ウィルス」についても著者はどう語っているか。興味ぶかいところだった。また、何度か読み返してみよう。『世界は分けてもわからない』においても作風は変わらなかった。

【ベスト4】 『南方熊楠』(鶴見和子著 講談社学術文庫 1981.1.10)
 世に名著というものがあるという。この本は名著として名高い。名著だから読むというのでは、ヘソマガリな私は認めたくない。また「私の文脈で読む」と主義にも反する。
 でもこの本については、これを引っ込める。やっぱり、ほんとうに名著だ。それを認める。
 熊楠を語った本としては、これ以上のものはないだろう。そんなたくさんのもの読んだわけではないけれど、そう思う。鶴見さんこそが「鶴見マンダラ」を持っているからこそ書けたものなんだろう。
 再々訪の前には、また読み直してみようと思う。

【ベスト5】『切っても 切っても プラナリア 新装版』(阿形清和著 土橋とし子 絵 岩波書店 2009.6.4 )
 名著と言えば、この本も名著として名高い本である。以前からずっとこの本を読みたかった。ネットで探しても絶版になっていた。古書店では驚くような値がついていた。図書館で探してもなかなかみつけることができなかった。この夏、偶然にもあのコウガイビルが、著者の著作当時の研究室へ私を連れて行ってくれた。あの渡辺憲二先生の研究室だ。そのプラナリアも見せてもらった。ますます、この本が読みたくなった。
 そしたらネットにうれしい情報が流れていた。この本の新装版が「復刻リクエト」に応えて出版されているという。
すぐ取り寄せた。ワクワクしながら、ページをあけた。予想通りだった、いや予想をはるかに超え面白かった。
これは、子ども向けの本のようになっているが、子どもだけではない、むしろ大人が読む方が面白いかも知れない。「生命とは」「再生とは」「iPS細胞とは」…その「ふしぎ!?」を楽しみたい人、科学研究携わる人すべてに読んで欲しい。そして科学研究を続ける人には、ぜひぜひ自分の分野でこんな本・こんな「名著」を書いて欲しい。
 
以上が今年の「私のベスト5」だ。来年はどんな本と出会えるだろう。楽しみである。

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名著『切っても切ってもプラナリア』に感動!!

Dscf0287▼昨日は、大賀ハス植えかえから、22週目だった。花托、いまは果托というのかな、そこに8つの子房のうち、5つにしっかりとした「種子」ができている。黒々としている。たくましさすら感じさせてくれる。
 この間の様子を、阪本祐二先生は次のように書いておられる。

 この間に受粉した胚珠は発達し、約一ヶ月後に黒熟する。花托は果托に変わり、発達して大きくなり、褐色化し、順次下の茎の方へ枯れていくから、花梗のところで折れるようになり、果托は下を向き、中の実が落下したり、果托と共に水面に下向きに落ちることになる。…(『蓮』阪本祐二著 法政大学出版局 P7より)

 あの「あこがれの4日間」から、まもなく1ヶ月がたとうとしている。阪本先生の言われることが、展開されようとしている。引き続いて観察をつづけていきたい。
▼昨日は、どうしても記しておきたいことがもうひとつあった。
それは、あの名著『切っても切ってもプラナリア』(阿形清和 文 土橋とし子 絵 岩波書店)を読んだのである。コウガイビルを追いかけるなかで、この本の存在は知っていた。1996年に刊行された「科学であそぼう」(岩波書店)シリーズの一冊として世に出ていた。非常に人気が高く、今は絶版になっているということだった。復刻を望む声も高かったようだ。私は、子度向けのこの人気の本をぜひとも読みたかった。図書館にいくたびに捜してまわった。amazonでも捜した。古書では数万円のプレミアついているとも言われていた。
 そう言われると、なんとしても読んでみたい気分になるのが人情だ。「コウガイビルを追う」のページでは、阿形先生の発表されたプレゼンのページにリンクしたりしていた。
▼いずれは、復刻されるだろうと淡い期待にかけていた。先日、偶然ネットで、「新装版」(2009.6.4第1刷)として復刻されているという情報を得た。さっそく注文した。小型化され一部改訂されているらしい。
 やっと手に入れたこの本を読んでみた。
 なるほど名著の所以がわかる。ぐいぐいと惹きつけられる。次へ次へと読みたくなる一挙に読んでしまった。
▼これは、科学読み物の傑作というだけでない。「コウガイビル」の「ふしぎ!?」を追いかけてきた私には、特別の意味をもっていた。自分でも驚いてしまうような事実が書いてあった。
まず最初に驚いたのは「プラナリアのいる場所」として、先日お世話になった兵庫県立大学理学部の近くの地図があがっているのである。ひょっとして、と思い著者阿形清和先生の巻末の履歴を見た。
「1991年より姫路工業大学(現・兵庫県立大学)生命科学科・助教授」
と書いてある。驚いた!!
ということは、この本の初版を出された当時は、あの「研究室」におられたことになる。
あの「研究室」とは、この8月20日に渡辺憲二先生に案内していただいあの部屋だ。
 そのときは、まったくそのことを意識していなかったのだ。
あの研究室から、この名著『切っても切ってもプラナリア』は生まれていたんだ。
驚き、感動の事実だ。
▼まだまだある。この本の最後の方に『一匹から増やしたプラナリア』(同書P41)の話が紹介されている。
 私がプラナリアの研究をしていた兵庫県立大学の理学部の研究室では、渡辺憲二教授が世界ではじめて実験室で増やすことに成功したプラナリア実験に使っていた。最初は一匹だったものが、今では何十万匹にも増えて、日本だけでなく、世界中の研究室に配られて実験に使われているのだ。プラナリアの遺伝子を研究するためには、同じ遺伝子を持ったプラナリアを使うことが必要だ。
 この名誉ある最初の一匹は渡辺教授が岐阜県の入間川でとってきたプラナリアの中から、実験室の環境になじませたものである。ほとんどのプラナリアは実験室の環境になじまずにそのうち死に絶えてしまうが、このGIと命名されたプラナリアは、実験室の水とニワトリのレバーを好むたくましいプラナリアなのだ。(中略)

 実験室では、渡辺教授がGIに一週間に2回ニワトリのレバーをあげては新しい水に交換し、水温は22度程度にして、2週間に一回の割合で増やした。増やすといっても、別に渡辺教授がナイフで切っているわけではなく、ある程度の大きさプラナリアは、咽頭のまえかうしろで自分で2つにちぎれて増えるのだ。(『切っても切ってもプラナリア(新装版)』P41より)

 なんということだ。あの研究室へお邪魔して渡辺先生自らがセッティグして、「プラナリアは顕微鏡で見なければ…」と見せてくださったのが、このGI(ジーアイ)だったのだ!!
 これを先に読んでおけば…。という思いもあるが、それよりもあの一匹の「コウガイビル」がここまで連れ来てくれたことに感動すると同時に感謝だ!!
▼まだある。この本にはちゃんと、コウガイビル261日の「ふしぎ!?」の答えが書いた。
その答えとは、この本のキーワード 「再生」である。
 みごとな話の展開で、「再生のルール」まで話が及ぶ、すばらしい。やっぱり名著だ!!
そして、これも最後の方に、私の「ふしぎ!?」に対する答えは用意されていた。
「エサを食べなくても再生できるのか?」(p37から)にある。

 このことは、何を意味しているかというと、プラナリアはエサがなくてちぢんでいくときも、エサを食べて大きくなっていくときも、いつも体の<つくり直し>をしているということだ。(同書P38)

 これこそ、コウガイビル261日の「ふしぎ!?」の質問に対して、渡辺憲二先生が、黒板に図も書きながら答えてくださった答えと同じではないか。「やっぱり」と思うと同時にあらためて渡辺先生に感謝する。
ゆっくりな私にわかりかけたこと。
●再生とは<つくり直す>こと。コウガイビル(陸棲プラナリア)は261日間、再生を繰り返した。
●再生の営みを繰り返すこと、それを「生きている」という。

▼この本は、この後、「大学で研究していること」「科学者をめさざす君へ」とつづく。子ども向けの本ということになっているが、そればかりでない。大人も十分に楽しめる。
 そして、「自分でも研究してみよう」という気持ちにさせる名著である。
 私にとって、名著の域を超えて、特別の意味をもつ一冊である。
 この夏、この本の新装版が出たということで、この本をテキストに「自由研究」に取り組んだという話などあれば、ぜひ知りたいものだ。
 

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今年読んだ本「ベスト○!?」(完)

▼昨日は2学期最後の日だった。終業式をやった。
この日の朝も、朝焼けがきれいだった。どんな冬休みが待ち受けているのだろう。
多忙感のなかにも、わくわく感があるのは生徒だけではない、私たちも同様である。
「終わり」のときには
いつもきまってこの歌が心に浮かぶ。ながいあいだに、心に染みついて「職業病」のようなもの
「ひとつのこと」

▼まずは、「ひとつのこと」を完了させてしまおう。
今年読んだ本の話だ。

【5】『クマムシを飼うには』(鈴木忠・森山和道著 地人書館 2008.7.30)  
 これは最高に面白かった。いや過去形では語れない、終わっていないからである。
言いかえる。「今、最高に面白い」それがこの本だ。
 今年いちばんわくわくしながら読んだ本がこれだ。
もちろん『クマムシ?!小さな怪物』(鈴木忠著 岩波書店 2006.8.4)はセットで面白い。
私は、紀の国オフに向かう車中で、むさぼるようにこの本に夢中であった。
「クマムシ」と「熊楠」なにも、語呂合わせを楽しんでいたわけではないが、私のなかではつながっていたのだ。
いろんなことが重なっていた。
私は、夏休みに「これからの理科の「自由研究」の研究」をやっていた。
「研究」はこれできまりだ!!と思った。「クマムシ」への興味もさることながら、それ以上にこの本著者に興味があった。面白いと思った。
 子どもたちの「自由研究」の未来を考えながら、結局は大人も含めた究極の「研究」のことを考えていた。
そのときに出会ったのがこの本。そして、なんと著者は、我らが森山和道さんというから、これは読まないわけにはいかないだろう。
 もちろん、研究者の鈴木忠さんも面白い。彼の「研究」に向かうスタンスに惹かれた。なぜ森山さんがこだわったかがわかるような気がする。
 【動物の世界】の授業のはじめに、熊楠の「粘菌」とこの「クマムシ」をもってきた。
子どもたちは、ぜひとも「クマムシ」を見たいと言った。ところが、情けないことに私は、いまだに見せていない。
それどころか、なんと私自身がまだお目にかかっていないのだ。(^_^;)
理科ハウスでは、もう「展示」まで行っているというのに。来年中にはなんとしても…。

▼5冊になったので、ここまでにしようと思ったが、やっぱりもう一冊はあげておく。
私のなかでの「出会った本」ということでは、あげておかねばならない。
Web関係だ。

【6】ウェブ時代「5つの定理」(梅田望夫著 文藝春秋 2008.3.1)
 この本は、読むと言うより、ときどきめくって示唆をもらっているという本だ。
ビジョナリーたちの「言葉」が示唆的である。
この時代を創りだした人たちの「言葉」は、きわめて本質的で、ピュアなものである。
心に響き、アクションを誘発する。
「やっぱり、そうだよな」「これまちがいない」と納得する。
「名言リンク集」などというはからいがあるのもありがたい。
 そのなかからひとつ。

■p.256
君たちの時間は限られている。
その時間を、他の誰かの人生を生きることで無駄遣いしてはいけない。
ドグマにとらわれてはいけない。
それでは他人の思考の結果とともに生きることになる。
他人の意見の雑音で、自分の内なる声をき消してはいけない。
最も重要なことは、君たちの心や直感に従う勇気を持つことだ。
心や直感は、君たちが本当になりたいものが何かを、
もうとうの昔に知っているものだ。
だからそれ以外のことは全て二の次でいい。── スティーブ・ジョブズ
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma─which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others・opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.──Steve Jobs
Steve Job's Commencement address at Stanford University, June 12 2005

※蛇足の蛇足になること承知で次の本(!?)もあげておく。
●ウェブブック『生きるための水が湧くような思考』(梅田望夫著)
 時代はここまで進化してきていることは確かだ。

▼以上で、今年私が出会った本の話は終わりにする。
極私的な読書[覚え書き]だ。
[覚え書き]の読者は、未来の私である。
来年は、どんな本と出会えるだろう。それを考えると楽しみである。
本との出会いは、モノやコトの「発見」であるから、
そして何よりもヒトとの「出会い」であるから面白い。

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今年読んだ本「ベスト○!?」(続々)

▼今年も残すところ8日。
今年読んだ本の話を続ける。本のことを覚え書きとしてまとめていくつもりが、いつのまにか、長くなってしまっている。
 今年の「本との出会い」が、それだけ私の生活のなかで大きなウエイトを占めいたことなのなかもしれない。
続ける。

【4】『南方熊楠・萃点の思想 【未来のパラダイム転換に向けて】』(鶴見和子著 藤原書店 2001.5.31)
 この本と出会いは、私にとってはいちばん意味あることになるかも知れない。
今年の夏の終わり、阪本さんのお世話で、【理科の部屋】の紀の国オフが行われた。
これは、最高に楽しいものであった。そのときの私のひとつの目標として、「熊楠」に会うということを設定した。
 あんまり予習もしていかなかったが、たいへん得るところ多い「熊楠」訪問となった。
 柳田國男が熊楠を訪ねて100年は経過しているのだろうか。
この「知の巨人」は、そう簡単には姿を見せてくれはしなかった。ひょっとしたら、つま先をちらっと見たのかも知れない程度である。でも、わかったことがある。
それは、100年の時空を超えてまちがいなく「熊楠はこれからの人である」とことだ
 行く前から「南方マンダラ」というものが、気になっていたそして、その<萃点>というものが。
 「熊楠」訪問から帰ってきてから、この本を読み始めた。
 驚いた、これだと思った。この「南方マンダラ」を読み解いた人がいたのだ。
それも並みの単なる「解説」ではない。自らに引きつけ、増幅させ『鶴見マンダラ』として。
私は、これからも何度もこの本を読むことになるだろう。
私のすべての発想が、「原点」から「萃点」にシフトしてきているのを感じる。

▼今日で出会った本の話は終わりと思っていたが、ダメだ。
 今日も、書ききることができなかった。明日こそ…。

つづく。
 

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今年読んだ本「ベスト○!?」(続)

▼12月23日、今日は私の「インターネット記念日」。
私がはじめて「インターネット」を見せてもらった日だ。渡部義弥さんに、その年に話題になっていた「現物」を見せてもらったのだ。
 それが、1995年の今日だ。
 この年の同じく師走、日本のインターネットの父と言われる村井純の『インターネット』(岩波新書1995.11.30)側題となっていた。彼はこの著で言った。
 この著の最後にイソップ物語「北風と太陽」をたとえにあげてこう言った。

 「太陽」のやりかたというのが、インターネットのいままでの発展を支えてきたのではないか、これからもインターネットはそのような形で発展していくのではないかと思っています。(P206)

 それから、13年が過ぎた。インターネットは急激な進化をとげた。時代はWeb2.0時代からWeb3.0時代へと向かっているのかも知れない。
 いつも、ゆっくりと時代についていく私には、最先端の道はわからない。でもわかることがある。
13年前の
 村井純の「太陽路線」は、時代を超えて有効である。これからも…
 それがWebの本質そのものだから。
▼13年前に出会った本を語りだしたところで、思い出した。
今年であった本のことを語りはじめていたのだ。その続きをあげていく。
前に『知的生産の技術』をあげた。それに関連して次はこれだ。

【2】『佐藤可士和の超整理術』(佐藤可士和著 日本経済新聞社 2007.9.14)
 私には耳慣れない「アートディレクター」「クリエイティブディレクター」の肩書きをもつ彼。私は、新聞の記事で一枚の写真(この本の扉にある)を見て、なにか感じるものがあってこの本を手に入れた。 
 実に面白い、グングンとこの人の世界に引き込まれるのを感じた。最初は、自分の日々の営みとあまり関係なさそうに思えたが、それはまったくちがっていた。究極は日々の生活のなかでの「思考の整理」である。
それへのプロセスが書いてある。職種なんて関係ない。
思考をするすべての人々に関係ある提案である。私は、この本のなかにある「整理のプロセス」をスキャナーで読み込み、PDFファィルにし、パソコンのディスクトップに貼り付けている。プリントアウトとし、手帳挟みこんだり、家と職場にプリントアウトしたものをよく見えるところにおいている。
 そして、ちょっと仕事の区切りのときにこれに目をやるようにしている。

▼こんな調子では、新しい年がきてしまう。ここで「整理のプロセス」に目をやる。(^^)V

【3】『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著 講談社現代新書 2007.5.20)
 私がこの本を手にしたとき、すでにこの本はベストセラーとなっていた。へそ曲がりな私は、この本を寝かしままにしていた。2学期、授業が【動物の世界】に入る頃だった。読み始めたのは…。
 「なんだ、これは…面白すぎる」、帯に書いてある「読み始めたら止まらない」は、くやしいけどホントだった。
著者がくり返し語る、生命の姿。『動的平衡』!、これぞ生命科学のキーワード。
なんで今まで読まなかったのだろう。この人の書いたものを。(・_・)......ン?
自分でも不思議なぐらいだ。文体にも惹きつけられる、これもうわさ通りである。
心象風景の描写はいつしか、「科学」にいきつく。そこで語られる科学は、私たちのぞむ「等身大の科学」。
合点することばかりだ。
 続けさまに、この人の世界に引き込まれていった。
◆『生命と食』(岩波ブックレット 2008.8.6)
◆『できそこないの男たち』(福岡伸一著 光文社新書 2008.10.20)
 近著。この本からは、この人のフーレズを使わせてもらって
 授業で『人間は考えるちくわである』という言葉まで造らせてもらった。深謝。
◆『プリオン説はほんとうか?』(ブルーバックス)
◆『もう牛を食べても安心か』(文春新書)
も買い込んだ。今は、まだ寝かせている。
今読んでいるのは
◆『ロハスの思考』(ソトコト新書 2006.5.20)
である。これもまた、私をあらたな世界につれていってくれている。
2008年 今、福岡伸一は、私のなかでは「ときの人」なんである。 

まだ つづく。 


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『思考の整理学』を読む。

▼ここのところまとまった時間をとって本を読むことが少なくなった。
「知的生産の技術」を読む のなかでも、何度か確認してきたことがある。
「本は、自らの文脈なかで読むべきである」ということである。
だから、その「自らの文脈」が、そこにいっていないときは、「寝かせて」いる。
この本『思考の整理学』(外山滋比古著 ちくま文庫 1986)このタイトルに惹かれて、購入して寝かせていたものだ。ここのところちょっと出かけることがよくある。
電車に乗ったときや、目的の会場で時間待ちなどという「すき間時間」ができることがある。
そんなとき用に携帯していたのだ。
▼実に面白い。
帯に「もっと若い時に読んでいれば…」そう思わずにいられませんでした。 と読者の感想が書かれている。
同感である。(゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン
「1986年発売以来の超ロングセラー」とも書いてある。納得できるはなしだ。
なにが面白いのか。説明するのは、なかなか難しい。
ひとつは、これが、22年前(正確な初版、文庫化する前は1983年だから、25年前)、四半世紀も前に書かれたものとは信じがたいというところだ。
 まるで、今の今 を語っているのとしか思えないエッセイがつづく。
ひとつ、ひとつのエッセイ文が独立していながら、それぞれがリンクしあっている。
それぞれは、独立している。
これは、blogのひとつのエントリーのようである。
脱線するが、この人がblogを書いていたら、さぞかし面白いものだろうな。
「お気に入り」にでも登録しておきたいな、検索かけてみたが、今のところみつけ出していない。

それぞれが、つながりあいながら、今の私の文脈にあう「メッセージ」をとどけてくれている。
いたるところで、「学校教育の今日的役割」についてもふれてくれているのはありがたい。
それが、繰り返すが四半世紀前というのが…。なんとも
まあ ホンモノは時空を超える ということで納得することにしておこう。

「すき間時間」用読書に、この人の本用意しておこうと思う。

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