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本日(2024/08/06)、第386回オンライン「寅の日」!! #量的と質的と統計的と #traday #寺田寅彦

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▼科学者・寺田寅彦の随筆をオンライン「寅の日」というかたちで読み始めて13年目になる。
 高校時代に現代国語の教科書に、随筆(「茶わんの湯」!?)が載っていたといううっすらとした記憶がある程度で、寺田寅彦のことをよく知らなかった。
 はじめは面白くなくなったら、すぐやめるつもりだった!!
 ところが話がちがってきた。
 面白いのだ!!読むたびに面白くなっていくのだった。
 にわか寅彦ファンの私が「わかった!!」と言えばウソになる。
 繰り返し読んでいる今も、面白さの理由(わけ)を読み解けているわけではない。
 しかし
 やっぱり 面白いのだ !!
 これって なに!?

▼本日(2024/08/06)は、第386回オンライン「寅の日」である。
 8月のテーマは、その寺田随筆の醍醐味でもある「寺田物理学」についてである。

【8月テーマ】「寺田物理学の行方1」

 である。その一回目の本日は「量的と質的と統計的と」を読む。

◆本日(2024/08/06)は、第386回オンライン「寅の日」!!

●「量的と質的と統計的と」(青空文庫より)


▼なんとも「科学」の本質をつくような話から展開されていく。
 「質的」とは
 「量的」とは

第一義たる質的発見は一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学の進歩には反古紙(ほごがみ)しか貢献しないが、質的に新しいものの把握(はあく)は量的に誤っていても科学の歩みに一大飛躍を与えるのである。ダイアモンドを掘り出せば加工はあとから出来るが、ガラスはみがいても宝石にはならないのである。
 現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史的事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。
 なんともこういう言い切りもまた寅彦の魅力のひとつであった。 そして、いつしか寅彦ワールドに引き込まれていくのだった。
これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値的決定より先にそれらのものが「在(あ)る」ということを確立することである。もっともそのためには精密な計画と行き届いた考察なしには手を出せないことは言うまでもないことであるが、その際得る数字の最高精度は少なくも最初には必ずしも問題にならないのである。おもしろいことにはこの種の Residual effect はしばしばそれが「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり把握(はあく)するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。
 いよいよ寅彦の本意に近づいて行く。
 もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。
そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。  むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。
 なんとも示唆的なコトバにつながるのだった。

▼そして時代を超えた問題提起になって行くのだった。

しかしもしそういう人たちがかりにそういう人たちとは反対にわざわざ難儀で要領を得ない質的研究をしている少数な人たちの仕事を、意識的、ないしは無意識的に discourage しあるいは積極的に阻止するようなことが、たまにならばともかく、学界一般の風(ふう)をなすようなことがあったとすればどうか、そういう事が実際にあるかないか。これも一応反省してみなければならない。

科学という霊妙な有機体は自分に不用なものを自然に清算し排泄(はいせつ)して、ただ有用なるもののみを摂取し消化する能力をもっているからである。

 そしていよいよ本論へ進んでいく。
 統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。

 こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から虱(しらみ)つぶしに調べて行って、そうしてそれらの現象の中に共通なる何物かを求めることが望ましく思われる。

 この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。

 要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の庇(ひさし)を借りた寄生物であったのであるが、今ではこの店子(たなこ)に主家(おもや)を明け渡す時節が到来しつつあるのではないか。ほんとうの新統計的物理学はこれから始まるべきではないか。

 この提案に至っては、ポンコツ頭の私の理解の範疇をはるかに超えていた!!
 しかし、わからぬままに面白さを感じる!!
 これはなに!?


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