本日(2023/02/01)、第339回オンライン「寅の日」!! #科学と文学 #traday #寺田寅彦
▼「Wコップ」二つを同じ場所に設置していても、できる「根毛のような」氷のでき方は微妙にちがっていた!!
それだけ「水が氷になる」プロセスはデリケートなものなのだろう。
紙コップを入れいるということが、より複雑に面白くしているのだろう。
寅日子先生にこれを見せたら、どう謎解きをやり表現してくれただろう。
いや「雪や氷」の話なので中谷宇吉郎先生にまかせた方が面白いかも知れない。
▼本日(2023/02/01)は、第339回オンライン「寅の日」である。
2月のテーマは、2022年12月、2023年1月と続けてきた「文章修業」の総集編として「科学と文学」とした。
【2月】「科学と文学」
読むのはテーマのタイトルそのもの随筆「科学と文学」を読む。
長編なので3回に分けて読む、本日はその一回目である。
◆本日(2023/02/01)、第339回オンライン「寅の日」!!
▼本随筆はとても「お気に入り」である。
とは言ってもとても長編で、私など何度読んでもわかっていないところでいっぱいだ。
見出しだけあげてみるとこうだ!!
・緒言
・言葉としての文学と科学
・実験としての文学と科学
・記録としての文学と科学
・芸術としての文学と科学
・文学と科学の国境
・随筆と科学
・広義の「学」としての文学と科学
・通俗科学と文学
・ジャーナリズムと科学
・文章と科学
・結語
本日は導入の「言葉としての文学と科学」あたりまで読めたらと思っている。
それぞれの方のペースで読みましょう。
面白そうなところだけ「拾い読み」もいいかも知れない。
まず「緒言」だ。
私は寅彦の「科学者宣言」のようなこの文章が好きだった。
もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。
全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。
寅彦の軸足は常に「科学者」にあった!!
▼さあ本論に入ろう。
まず「言葉としての文学と科学」である。
象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。
方則に従っていればこそ、それと同じような現象が過去にも起こりまた未来にも起こりうるのであり、かくしてその作品は記録であると同時にまた予言として役立つものとなるであろう。
人間霊知の作品としての「学」の一部を成すところの科学はやはり「言葉」でつづられた記録でありまた予言であり、そうしてわれわれのこの世界に普遍的なものでなければならないのである。
そして、うんと納得のいく言葉がつづいた。
それで自分の書いたものを、改めて自分が読者の立場になって批判し、読者の起こしうべきあらゆる疑問を予想してこれに答えなければならないのである。そういう吟味が充分に行き届いた論文であれば、それを読む同学の読者は、それを読むことによって作者の経験したことをみずから経験し、作者とともに推理し、共に疑問し、共に解釈し、そうして最後に結論するものがちょうど作者の結論と一致する時に、読者は作者のその著によって発表せんとした内容の真実性とその帰結の正確性とを承認するのである。すなわちその論文は記録となると同時に予言となるのである。
言葉としての科学が文学とちがう一つの重要な差別は、普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。
物理的科学が今日の状態に達する以前、すなわち方則が発見され、そうして最初に数式化される前には、われわれはただ個々の具体的の場合の解式だけを知っていた。そうして、過去にあったあらゆる具体的の場合を験査し、またいろいろな場合を人工的に作るために「実験」を行なった。それらの経験と実験の、すべての結果を整理し排列して最後にそれらから帰納して方則の入り口に達した。
文学は、そういう意味での「実験」として見ることはできないか。これが次に起こる疑問である。
おみごと!!
「言葉」→「記録」→「予言」→「実験」
本随筆を貫くキーワードが次々と登場するのである。
もうすっかり寅彦ワールドだ!!
(つづく)
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