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本日(2022/09/10)、第326回オンライン「寅の日」!! #連句雑俎 #traday #寺田寅彦

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▼あれっ!?
こんなところに花茎のばしていたかな!!

 気づかない間に花芽が顔を出し、花茎をスルスルとのばし満開に達するヒガンバナ!!
 今、そこかしこに見る景だ。
 あれっ!? 葉がないゾ !!

▼本日(2022/09/10)は、第326回オンライン「寅の日」である。
 9月に入って、オンライン句会「寅の日」は、3年目に入った。
 それを記念して、9月のテーマは

【9月テーマ】「寅彦と連句」

である。読むのは2回とも「連句雑俎」ときめていた。

◆本日(2022/09/10)、第326回オンライン「寅の日」!!

●「連句雑俎」(1)(青空文庫より)

▼最初に正直に言うと、これは私にとっては難解きわまりない!!
オンライン「寅の日」10年の歩みのなかでも、これをとりあげたのはこれまでに1回だけだった。
 「連句」と聞いても、なかなかピンとこなかった。
 我らが寅日子先生は、なぜかくも深く「連句」に興味をもったのだろう。
 連句とは!?
 連句的とは!?
 寺田物理学と連句的!?
 ひとつでもわかってくることがあればよしとしよう。

 またまたこまったことに長編だ!!
 寅日子先生の「連句論」、項目のみピックアップしてみるとこうだ。

一 連句の独自性
二 連句と音楽
三 連句と合奏
四 連句の心理と夢の心理
五 連句心理の諸現象
六 月花の定座の意義
七 短歌の連作と連句

 さしあたり、今回は一~三あたりを中心に読んでみる。
 寅日子先生の思い入れのほどがわかるコトバをピックアップしてみる。的外れも多々あるかも知れないが。

 しかしなんと言っても俳諧は日本の特産物である。それはわれわれの国土自身われわれの生活自身が俳諧だからである。

日本の景観の多様性はたとえば本邦地質図の一幅を広げて見ただけでも想像される。それは一片のつづれの錦(にしき)をでも見るように多様な地質の小断片の綴合(てつごう)である。これに応じて山川草木の風貌(ふうぼう)はわずかに数キロメートルの距離の間に極端な変化を示す。また気象図を広げて見る。地形の複雑さに支配される気温降水分布の複雑さは峠一つを隔ててそこに呉越(ごえつ)の差を生じるのである。この環境の変化に応ずる風俗人情の差異の多様性もまたおそらく世界に類を見ないであろう。
 
  
 このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである。 

これこそが、寅日子先生の<結論>である。そんな気がしてくるコトバだ。

▼次に、「連句と音楽」「連句と合奏」と展開していくのである。
 ダメだ!!私のもっとも苦手とする領域である。

 連句というものと、一般に音楽と称するものとの間にある程度の形式的の類似がある事について私は従来もすでにたびたびいろいろな機会に述べたことがあるが、ここでもう一度改めてこの点について詳しく考え直してみたいと思う。

連句は音楽と同じく「律動(リズム)」と「旋律(メロディー)」と「和声(ハーモニー)」をその存立要件として成立するものである。そうして音楽の場合の一つ一つの音に相応するものがいろいろの物象や感覚の心像、またそれに付帯し纏綿(てんめん)する情緒である。これらの要素が相次ぎ相重なって律動的旋律的和声的に進行するものが俳諧連句である。従ってこれらの音に相当する要素には一つ一つとしての「意味」はあっても一編の歌仙全体にはなんらの物語の筋は作り上げない。筋はあってもそれはもはや言葉では言い現わされない、純音楽的な進行の筋である。

 このように、連句は文学であるよりは、より多く音楽である。

しかし結局連句は音楽である。音楽は演奏され聞かれるべきものである。連句の音楽はもう少し広く日本人の間に演奏され享楽されてしかるべきである。


 連句の文学的作品としての著しい特異性の一つと見るべきことは、それが一つのまとまった全体を形成しておりながらその作者は必ずしも一人の人間でなくてむしろ一般には数人の一団より成る「集合人」であるということである。

連句の場合ではこれと反対に読者のほうで初めから普通の詩や小説のように話の筋や論理的の連結を期待せず、また期待してもそういうものはどこにもない。そうして前条に詳説したようにたださまざまの景象や情緒の変転して行く間に生まれ来る「旋律」と「和声」とを聞かされるのである。従ってこの間に錯雑して現われて来るいろいろな作者のそれぞれちがった個性はなんらの破綻(はたん)を生じないのみか、かえってちょうどいろいろ違った音色をもつ楽器のそれぞれの音のような効果をもって読者の胸に響いて来るのである。
 前者では一つの個性が分裂し破壊した感じを与えるのに対して、後者では多数の個性が融合調和して一つの全体を構成しているように感じられるのである。

 ここで考えているような立場からすれば、普通の文学的作品は一種の分析(アナリシス)であるのに対して連句は一種の編成(シンテシス)であるとも言われる。

それらの相反するものが融合調和し相互に扶助し止揚することによって一つの完全なる全体を合成し、そうして各因子が全体としての効果に最も有効に寄与しているのでなければならない。こういうわけであるから、連句のメンバーは個性の差違を有すると同時に互いに充分なる理解と同情とをもっていなければ一つの歌仙をまとめる事も不可能である。

しかし私がここでこういう未熟で大胆な所説をのべることのおもな動機は、そういう学問的のものではなく、むしろただ一個の俳人としてのまた鑑賞家としての「未来の連句」への予想であり希望である。簡単に言えば、将来ここで想像した作曲者あるいは映画監督のようなリーダーがあちらこちらに現われて、そうしてその掌中の材料を自由に駆使して立派なまとまった楽曲的映画的な連句を作り上げるという制作過程が実行されたならばおもしろいであろうということである。おもしろいというだけではなくて世界にまだ類例のない新しい芸術ができるであろうということである。

実に不思議なものである。
勝手にピックアップしたコトバをつないで読んでみると
寅日子先生の「連句」「連句的」のイメージがおぼろげに見えてくるのである!!
よくわかってはいないが 面白い!!
後半が楽しみだ!!

(つづく)
 

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