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「原子論」を科学する(36) #原子論の歴史 #セネカ #ルキアノス #ヘルクラネウムのパピルス

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▼クモの世界にも秋がはじまろうとしていた!!
 今年のコガネグモは9号まで来た。現在は8号だけがまだ近くに残っていてくれた。
 そのコガネグモにかわって、その小型!!名前もそのまま「コガタコガネグモ」が目立ち始めた。つづいて「ナガコガネグモ」「ジョロウグモ」たちが活躍するようになれば本格的な秋だ!!

 クモたちの祖先の祖先もまた古生代の海で誕生したのだろうか!?
 そして、どんな進化の「みちすじ」をたどって今、目の前にいるのか!?
 やっぱり「ふしぎ!?」だ。
 
 古代ギリシアで誕生した「原子論」然りデアル!!

▼「原子論」の歴史をつづけよう。
『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』を参照しながら

 「原子論」のその後はどうなっていったのでしょう?
 とりわけ紀元1~2世紀はどうなったでしょう。最初に焦点をあてた人物はセネカ(前4~後65)です。ローマの政治を背後から支えた人物のようです。

 セネカは、このようにエピクロスの教えをたくさん引用して、<楽しさを重視するエピクロス主義>を前面に出して、<禁欲主義的なストア哲学>を和らげようとしていたのです。皇帝の後見役をつとめていたセネカですら、こんなに原子論に近づいていたのです。皇帝の時代になったからといって、原子論やエピクロス主義は、弾圧されることがなかったのです。それどころか、それは、時代を代表する思想の一つにさえなっていたのです。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p200より)

 また少し時代をおいて「風刺作家」ルキアノス(121~180)の場合の例があがっています。

  彼の制作活動が頂点に達したのは、あの哲学者皇帝マルクス・アウレリウスの在位した165~175年のころとみられています。ふつう彼は、「なんでもかでも笑いの種にする風刺作家」とのみ見られたりしています。しかし、「原子論」に着目してその作品を詳しく検討すると、彼は明らかに原子論の立場に立って、さまざまなことを風刺の対象にしたことが分かります。当時の社会は、原子論や無神論の立場から見ると、風刺に値することがたくさんあったのです。彼が書いたとされる作品は短編ばかり80篇ほど伝わっていますが、そのうち13編にはエピクロスまたはエピクロス派の人を登場させています。そして、いつもそれに好意的かその立場にたって書いていることが分かります。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p214より)

▼結論的に言うと

 ローマ帝国下の1~2世紀には、原子論、エピクロス主義は弾圧されたり衰退したりはしませんでした。それどころか、「エピクロスの原子論は、紀元前の時期よりもさらに多くの人びとの支持を集めていた」といってもいいでしょう。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p220より)

 私は真逆に思い込んでしまっていました。

▼79年8/24 ヴェスヴィウス火山大爆発。ポンペイ市とヘルクラネウムの町はわずか一日で埋没した。後に(1750年)に考古学者たちは、ヘルクラネウムの町の別荘の一角から図書室を発掘し1806巻のパピルスを発見した。
 そのパピルスに関係する興味深いエピソードが「追記」にありました。

しかし、原子論に関心をもつ科学者たちはガッカリするどころか、このニュースに大いに関心をもちました。その後知ったことですが、英国の大科学者のデーヴィ(1778~1829)は1813~15年にファラデー(1791~1867)を連れてヨーロッパ大旅行をしたとき、ヘルクラネウムにも出かけて行って、<自分の化学の知識を利用すればそのパピルスを何とか解読することができるのではないか>と挑戦しているのです。そればかりか、彼はその後1818年にもヘルクラネウムに出かけていって、そのパピルスの解読法を研究しています。 結局、彼の化学の知識を持ってしても、そのパピルスをうまく解読することはできなかったのですが、デーヴィは、このときに得た知見について、王認学会で発表した論文があります。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p221より)

 面白いですね!!
 言わば「原子論」の化石ですね!!

 

●後50年 セネカ(前5/4~後65)、法務官となる。セネカは、52年頃までに『(兄ノバトックスあて)怒りについて』を著す。「われわれにとって、デモクリトスの、あの健康的な教えは役に立つだろう。そこで教えられているのは心の平静ということであって、私的にも公的にも、自分の能力に余るようなことを行なわないことである」と記す。

●79年8/24 ヴェスヴィウス火山大爆発。ポンペイ市とヘルクラネウムの町は埋没した。のち考古学者たちは、ヘルクラネウムの町の別荘の一角から図書室を発掘し1806巻のパピルスを発見。「パピルス荘」と名付けたが、そのパピルスの大部分はエピクロス派の哲学者ピロデモスの著書だつたという。

●165~175年 ルキアノス(120~185頃)の制作活動頂点に達する。とくに「空を飛ぶメニッポス」「二重に訴えられて」「悲劇役者ゼウス」で原子論の主張を支持し、ストア派を批判する。

(『原子論の歴史-復活・確立-』年表P184、P185、P187より)

(つづく)

 

 

 

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