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本日(2022/07/12)、第321回オンライン「寅の日」!! #ルクレチウスと科学 #traday #寺田寅彦

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どれもこれも真ん丸だ、まちがいないこれは 太陽の像だ!!
 いたくこのアタリマエに感動するのだった!!

 真っ昼間の「ひとり吟行」、途中の木陰に入るのがうれしかった。
 しばし、足をとめて木漏れ日が道路に映し出した太陽の像を楽しんだ。
 日食のときには、これが真ん丸ではなくなり欠けてくるのだろうと想像しながら。

 驚くべきことにルクレチウスはこの「像」についても言及していた!!


▼本日(2022/07/12)、第321回オンライン「寅の日」である。
 7月テーマは6月につづいて

【7月テーマ】「寅彦とルクレチウス」

である。7月も2回とも連続して、「ルクレチウスと科学」を読む。
 本日はその四回目ということになる。

◆本日(2022/07/12)、第321回オンライン「寅の日」!!

●「ルクレチウスと科学」(4)(青空文庫より)


▼ふた月目に入った。
 寅彦の文章と『物の本質について』(ルクレーティウス 著 , 樋口 勝彦 訳 岩波文庫)を交互に読みながら、ちびりちびりと進めている。
 何度も言うが、私には自らの「文脈」に引き寄せながら読むしかないのだ!!
 と自分に言い聞かせながら読み進めている。
 今回は4章、5章(ルクレチウスでは4巻、5巻)を中心に読み進めてみる。

 第4章に入って、寅彦の熱い語り口調は少しトーンダウンしたような気がする。
 まずはこうだ!!

 第四巻に移るに当たって、私は以上の三巻を取り扱って来た私の紹介の態度と方法に多少の変更を加える必要を感じる。
 以上紹介したところによって、私はルクレチウスの根底に存する科学的精神の一般的諸相と、彼の元子説のおもなる前提ならびにその運用方法の概念だけを不完全ながら伝えることができたように思う。以下の三巻に現われるこれらの根本的なものは、多く述べきたったものの変形であり敷衍(ふえん)であるとも見られる。

 要するに三巻までの繰りかえしが続くので、少し省略していこうというわけである。
 また、これまでも言っていたが、こんな「ことわり」を繰りかえす。
  
また一方、以下各巻に現わるる具体的の自然現象の具体的説明となれば、これらはそのままでは当然現在の科学に照らした批判に堪えうるものではない。

 それにしても、「光」「音」についてもたいへん興味深い論理が展開されている。
 たとえば

 第四巻の初めにおける重要題目は物体が吾人(ごじん)の視官によって知覚さるる機巧に関するものである。アリストテレスやピタゴラスらは、目から発射するある物が物体を打つために物が見えると考えたのに反して、この著者が物体から飛来する何物かが目を刺激するのであると考えた点は、ともかくも一歩だけ真に近い。しかしその物体から来るものは今日の光線でも光波でもなくて「像」(image)と名づける薄膜状の物質である。

そんな馬鹿な!!で終わりにせず
今一度自らに問いたい。
 「ルクレチウスにまけない観察眼が我々にあるだろうか?」と。
 寅彦が教育方針への疑問も投げかけている。ひょっとしたら今も有効なのかも!?

 多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。

▼第5巻に入って、ルクレチウス自身も少し方向転換したようである。
 一読しただけではちんぷんかんぷんの「観念的」な言葉がならぶ。しかし、ルクレチウスの本意とはこのあたりにあるのかもしれない。

 第五巻の初めにおいて、ルクレチウスは、さらに鋒先(ほこさき)を取り直して彼の敵手たる目的論的学説に反抗している。そうして神を敬遠して世界と没交渉な天の一方に持ち込んでいる。
一は公理から演繹えんえきし一は事実から帰納するのである。この点からもルクレチウスのほうが自然科学的である。
たいへん興味深い展開もある。
最も興味あるは宇宙の生成に関する開闢論的(コスモゴニカル)考察である。元子的渾沌(こんとん)の中から偶然の結合で分離析出が起こるという考えは、日本その他多くの国々の伝説と同様であるが、それを元子論的に見た点がはなはだ近代的であることは前述のとおりである。
 この方法論は、実は、はなはだ科学的なものである。彼の考えを敷衍(ふえん)して言えば、経験によって明確に否定されないすべての可能性は、すべて真でありうることを認容してかからねばならないというのである。この事は意外にもかえって往々にして現時の科学者によって忘却される。精密という言葉、量的という標語を持ち出す前にまず考えなければならない出発点の質的のオルターネティヴが案外にしばしば粗略に取り扱われる。その結果は、はなはだしく独断的に誤れる仮定に基づいためんどうな数学的理論がひねり出されたりするような現象が起こる。そういう意味でルクレチウスのこの態度は、むしろ今の科学者に必須(ひっす)なものと考えなければならぬ。
これなど、自然科学の方法に関する重要な提言で、現代にも通用するものである。

 トーンダウンしたとは言え、寅彦はやっぱり熱く語っているのである!

 やっぱり問い続けよう!!

 「寅彦は、なぜかくも熱くルクレチウスを語るのか!?」

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