「原子論」を科学する(33) #原子論の歴史 #ストラトン #逍遙学派 #教訓茶碗 #ヘロンの噴水 #ふきあげ #原子論の勝利
▼ずいぶん久しぶりに、昔なつかしいサイホンを利用した玩具『ふきあげ』を引っぱり出してきた。
青いガラス玉が、カタカタくるくると回りはじめた!!なかなか涼しげで風流なものだ。
はじめて出会ったのは今から38年も前の話だ。そのとき書いた図があった。
原理はいたって簡単、海苔の空き瓶に『ふきあげ』を引っかけて、水をいっぱい入れるとサイホンで水を吸い上げ、外のひょうたん形の下までいって、「噴水」となった。
横からも水は噴き出した。「噴水」にガラス玉をのせると、ガラス玉はカタカタくるくると回るという仕掛けだ。最高にお気に入り玩具のひとつだった!!
▼「原子論」の歴史をつづけよう。
『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』を参照しながら
デモクリトスの「原子論」は、エピクロスというすばらしい後継者の登場で、すぐれた「科学」となった。一方、「原子論」をきびしく批判したアリストテレスたち=逍遙学派の人たちはその後どうなったのでしょう。
そのなかでも逍遙学派の第三代学頭ストラトンの活躍はめざましいものがあったようです。
ストラトンは、とくに<気体と圧力>の研究で大きな成果を上げました。そして「気体は微細粒子から成る」と考え、アリストテレスの認めなかった「真空」の存在を認めました。<微粒子と真空>の両方の存在を認めてしまえば、原子論とそっくりです。しかし、彼は、「その微粒子は絶対に壊れない」とまでは言わず、逍遙学派の学頭に留まって、最終的には原子論と一線を画しました。彼はアリストテレスに従って、<基本原理は熱・冷という二つの基本的性質である>とも言いました。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p97より)
▼ここで著者のいちばん言いたかったと思われるところがでてきます。
それどころか少し前の本になると、「古代の原子論は科学的でない空想的なものに過ぎなかった」として、それに対するアリストテレスの批判だけを取り上げました。そこで、「古代の原子論は何の科学的な成果も挙げずに、アリストテレスの批判の前に滅び去った」と間違って考える人がたくさんいます。
しかし、そのような考えは間違っています。古代の原子論は、遅くともエピクロスの時代には、重さの重視によって科学研究と結びついていたのです。そして、ストラトンの研究によって、気体の科学的な研究とも結びついていたのです。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p99より)
ここにこの本 のタイトル『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』に、「誕生」と「追放」の間に「勝利」を入れた本意があるのです!!
著者は「原子論」が一度は「勝利」したことを言わずにおれなかったのでしょう!!
▼ストラトンにこだわっての話はまだまだつづきます。
ストラトンの<気体と圧力>の研究は、原子論の真実性を増すことになりました。それだけではありません。すでに触れたように、彼の研究は当時の技術者たちに受け継がれて、<空気と水>を使った技術の開発にも多くの貢献をしました。古代の技術者たちは、ストラトンが研究した<空気と水>の性質を巧妙に利用して、素晴しい発明をたくさんしていたのです。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p113より)
これにひきつづき
・教訓茶碗
・ヘロンの噴水
と話題は展開していくのだった。
正直言って、そこまで「原子論」と関連させて考えているのには驚きでした。
さらにこんなことも
ストラトンが研究したのは、空気と圧力だけではありません。彼は
「木炭は、炭焼き前の木材と大きさが同じかほとんど同じなのに、重さはまったく違う」という事実を指摘しています。これは、彼が<重さ>に目をつけて研究している証拠です。
(『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p118より)
ストラトンは、エピクロスと同じように、重さに注目して自然を研究していたのですが、この二人は、<軽さ>についての考えも一致していました。 (『原子論の歴史-誕生・勝利・追放-』p120より)等々で <原子論者のエピクロス>と<逍遙学派のストラトン>は、似たような考えをもっていたことは確かなようです。
『ふきあげ』の青いガラス球はカタカタくるくると、水位がガラス管の端に達するまで回り続けているのだった。
●前286年頃 ストラトン(前340頃~前268)、アレクサンドリア市からアテナイに戻り、逍遙学派の第三代学頭に就任。「空虚について」「軽さと重さについて」「機械学」などを著し<自然学者>と呼ばれる。
(『原子論の歴史-復活・確立-』年表P179より)
(つづく)
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