本日(2022/06/06)、第318回オンライン「寅の日」!! #ルクレチウスと科学 #traday #寺田寅彦
▼太古の昔より空は青かった!!
空に浮かぶ雲は白かった!!
なぜだろう!?
このアタリマエの「ふしぎ!?」はどのように「原子論」とツナガルのか。
寅彦に聞いてみよう。
▼本日(2022/06/06)は、第318回オンライン「寅の日」である。
6月テーマは、
【6月テーマ】「寅彦とルクレチウス」
である。6月は3回とも連続して、「ルクレチウスと科学」を読む。
本日はその一回目である。
◆本日(2022/06/06)、第318回オンライン「寅の日」!!
▼ともかく長編である!!
その全編にわたり寅彦は熱く熱く「ルクレチウス」を語っていた。
「緒言」からはじめよう。
要するにルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録(アポカリプス)である。そのままで現代の意味における科学書ではもちろんありうるはずがない。もしこの書の内容を逐次に点検して、これを現在の知識に照らして科学的批判を試み、いろいろな事実や論理の誤謬(ごびゅう)を指摘して、いい気持ちになろうとすれば、それは赤ん坊の腕をねじ上げるよりも容易であると同時にまたそれ以上におとなげないばかげた事でなければならない。
寅彦は最初から「ルクレチウス」を擁護していた。「ルクレチウス」のすごさはここにあると力説していた。
ヨハネは目的の上からすでに全然宗教的の幻想であるのに反して、ルクレチウスのほうは始めから科学的の対象を科学的精神によって取り扱ったものである。彼の描き出した元子の影像がたとえ現在の原子の模型とどれほど違っていようとも、彼の元子の目的とするところはやはり物質の究極組成分としての元子であり、これの結合や運動によって説明せんと試みた諸現象はまさしく現在われわれの原子によって説明しようと試みつつある物理的化学的現象である。
「ルクレチウス」を語ることの意味を次のようにとらえていた。
現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。
ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗(しんちょく)することはあり得ない。うそだと思う人があらば世界の学界を一目でも見ればわかることである。
実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑(はいふ)に強い共鳴を感じさせないではおかないものがある。のみならず、たとえ具体的にはいかに現在の科学と齟齬(そご)しても、考えの方向において多くの場合にねらいをはずれていないこの書物の内容からいかに多くの暗示が得られるであろうかという事はだれでも自然に思い及ばないわけには行かないであろう。
寅彦の「ルクレチウス」への惚れ込みようが伝わってくるようだ。
▼まだまだ熱く語る!!
十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
今もしルクレチウスが現代の科学者にとって有効に役立ちうるとすれば、それはまさにこの稲妻の役目をつとめうる点である。
そして、若い人にこそ「ルクレチウス」を!!と。
要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。 一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。
実際現代の多くの科学の学生はこれとよく似た境遇にありはしないかと心配される。そういう学生にとってルクレチウスが確かに一種のヴィタミンの作用を生じうるであろうと考えるのである。
なんと「緒言」だけで、第一回目は終わってしまいそうである。
いよいよの本論については次回からということになる。
今回もやっぱり私の「宿題」はつづいていた。
寅彦はなぜかくも熱く「ルクレチウス」を語るのか!?
(つづく)
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