「原子論」を科学する(14) #原子論の歴史 #真空 #ガリレイ #トリチェリ #ゲーリケ #マグデブルク半球
▼これぞ「究極のマグデブルク半球」!!
大きなガラス板・鉄板を運ぶための吸盤(プロ仕様)を二つ重ね合わせた物。
一斗缶に少量の水を入れ下から加熱して、湯気・水蒸気がいっぱい出だしたころフタをした。
少しだけ冷やした。一斗缶は大きな音とともにベコベコに凹んだ!!
歓声!!感嘆!!感動!!
そして、ひとりの生徒が言った。
「先生、今、その缶になに入とったん!?」
▼「原子論」の歴史をつづけよう。
帰ってきた「原子論」にも、もうひとつの大問題が残っていた。
「真空」デアル!!
それは我らがガリレイにとっても同様であった。
「自然は真空をきらう。」これは散歩学派の大切なテーゼであった。
ガリレイが落体の法則を導き出したのは一六〇四年であった。彼は近世科学の実験的方法の模範をここで打ち立てた。(中略)落体の法則を発見するために、ガリレイは散歩学派の固定観念とたたかわねばならなかった。
散歩学派はいう。物体が落下するのは、地球の中心にむかう志向が、物体に内在しているからである。物体が下へむかって運動すると、背後に真空がつくられる。しかし自然は真空をつくらせない。そのために空気が物体の後方に殺到して、下の方へ突く運動を与える。だから物体が落下するにつれて速度は大きくなる。物体は重いものほど、地球の地球の中心に向かう志向が大きい。だから落下速度は重量に比例する。
散歩学派にとっては、空気は落体の加速度の原因であった。ガリレイは落体の加速度は、間断なく下方へ向けて加えられる重力がひきおこすと考えた。そして散歩学派と反対に、空気は速度をおそくする抵抗の原因だと判断した。(中略)ガリレイは、散歩学派に最後の一撃を加えるために、空気のない場所-真空で実験してみたいと思った。しかし彼の生涯は、人間が真空をつくるのを待たないで終わった。
(『原子論の誕生・追放・復活』P109より)
▼それでも、「真空」をつくるという大きな仕事はガリレイの手引きではじめられた。
ポンプは約10mより以上の深さでは、きかなくなるという事実の指摘からはじまった。
トリチェリの実験は一六四三年、パスカルの実験は一六四八年におこなわれた。一六四八年にはマグデブルクの市長ゲーリケが、空気を汲み出して真空をつくるポンプ-空気ポンプを発明した。
自然の真空嫌悪はこうして否定された。真空の中でおこるいろいろな現象が観察されるようになった。また気体の研究が科学の流行課題となった。
(『原子論の誕生・追放・復活』P112より)
●1654年 ゲーリケ(ドイツ、1602~1686)、レーゲンスブルクでのドイツ平和会議で真空ポンプによる真空実験を公開披露。(マグデブルク半球の実験)
▼そして、「原子論」はあらたな局面をむかえた!!
真空嫌悪は追放された。唯物論者は原子をよびもどした。世界は運動し、引きあう原子によって組み立てられる。よびかえされた原子は王座にのぼった。
ガリレイは彼の材料力学を金属を形つくる原子を頭に描きながらつくる。ニュートンはその万有引力を、粒子と粒子の引力の総和として考える。光を彼は直進する微粒子から説明する。光の屈折は、光微粒子と媒質の微粒子とのあいだの引力によると考える。ニュートンに反対したホイヘンスの波動説は、真空を否定するけれどもやはり原子論である。
(『原子論の誕生・追放・復活』P115より)
空虚な空間と不可分の原子に賛成できないデカルトもまた、原子からまぬがれることはできない。粒状組織を持った連続体からできあがった空間と物体。これがデカルトの世界である。連続体を形づくるデカルトの粒は、論理的には可分性をそなえているけれども 、現実にはめったにこわれない。デカルトの世界もやはり原子からなっている。(『原子論の誕生・追放・復活』P116より)
そして、次なる展開がはじまろうとしていた。
だが、考えられるかぎりのものを、数量と方程式で表現しなくては気のすまなかった科学者たちも、彼らの熱愛する原子に物指しをあてがい、それをはかりにかけることには、まだ手がつけられない。
(『原子論の誕生・追放・復活』P117より)
(つづく)
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