本日(2022/01/25)、第307回オンライン「寅の日」!! #科学と文学 #traday #寺田寅彦
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「今、なぜ寺田寅彦なのか!?」
それはオンライン「寅の日」をはじめてからずっとのテーマであった。
その答えはみつかったのか?
答えはひとつとはかぎらない。答える人によってもいろいろだろう。
10年が経とうとする今、私にはひとつの答えがはっきりしつつある。
▼本日(2022/01/25)は、第307回オンライン「寅の日」である。
2022年1月のテーマは
●【1月テーマ】「科学と文学」
である。読むのもズバリ、テーマそのものの「科学と文学」。
本日はその2回目ということになる。
◆本日(2022/01/25)、第307回オンライン「寅の日」!!
▼後半である。
・随筆と科学
・広義の「学」としての文学と科学
・通俗科学と文学
・ジャーナリズムと科学
・文章と科学
・結語
あたりを中心に読んでみたい。
後半は、寅彦の本意が次々と語られていた。
科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。
これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたその考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人(しろうと)にもおもしろくまた有益なものが少なくない。
それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。ここに寅彦の本意を見た!!
これぞ科学する者たちへの「随筆のすすめ」なのである!!
そこにとどまらないのが、寅彦のほんとうにすごいところだった。
寅彦は「未来」をも見据えていた。
非論理的論理というのは、今の人間のまだ発見し意識し分析し記述し命名しないところの、人間の思惟(しい)の方則を意味する。これを掘り出し認識するのが未来に予想さるる広義の「学」の一つの使命である。科学も文学も等しくこの未来の「学」の最後のゴールに向かってたどたどしい歩みを続けているもののようにも思われるのである。
もちろんすべての知識には悪用の危険性を含んでいる。科学知識も同様である。しかし科学は全体として見れば人間一般の福利を増進するつもりで進んで来た。もちろん現在ではかえって科学の進んだために前よりも不幸になった人間も多数にありはするが、それは物質科学の方面だけが先駆けをしてほんとうの社会科学、現在のいわゆる社会科学よりももう少し科学的な社会科学、がはるかなかなたに取り残されたために生じた矛盾であり悲劇であるように思われる。
▼そして、今の私にとってはここからが特に意義深いところであった。
科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
これこそが私の「理想」であった。
ホンモノとニセモノの「見分け方」もきっちり語ってくれていた。
そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。
そして文章作成術・作成心得がつづく!!
そういう種類のものにはやはり必ず何かしら独創的な内察があり暗示があり、新しい見地と把握(はあく)のしかたがあり、要するになんらかの「生産能」を包有しているある物がなければならないのである。
それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。
これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。
科学をわかりやすい言葉・文章にして人に伝える!!
それがサイエンスコミュニケーターとしての私の仕事である!!
そのための
「文章作成修行!!」
それこそが、「今、なぜ寺田寅彦なのか!?」の私のひとつの答えなのである。
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