本日(2021/11/02)、第299回オンライン「寅の日」!! #量的と質的と統計的と #traday #寺田寅彦
▼それは「たまたま」とか「偶然に」の域をはるかに越えていた!!
「自然結実」ヒガンバナの花茎を採集して、「水栽培」をしていた。
こうして、ここから完熟「種子」を回収しようと言うのである。
これを見ているだけでも 圧巻!! である。
今、日本のヒガンバナに何かが起こっていることだけは確かだ!!
▼本日(2021/11/02)は、第299回オンライン「寅の日」である。
11月のテーマも、10月に引き続き
【11月テーマ】「寅彦の自然の見方」
である。
11月一回目の本日は、「量的と質的と統計的と」を読む。
◆本日(2021/11/02)、第299回オンライン「寅の日」!!
▼「自然の見方」ということに焦点を絞って、読み解いていくと実に示唆的なコトバがつづく。
これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値的決定より先にそれらのものが「在(あ)る」ということを確立することである。もっともそのためには精密な計画と行き届いた考察なしには手を出せないことは言うまでもないことであるが、その際得る数字の最高精度は少なくも最初には必ずしも問題にならないのである。おもしろいことにはこの種の Residual effect はしばしばそれが「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり把握(はあく)するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。これは畢竟(ひっきょう)量を見るに急なために質を見る目がくらむのであり、雑魚(ざこ)を数えて呑舟(どんしゅう)の魚を取りのがすのである。
もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。
そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。 むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。
実に手前勝手な我田引水!!
ここまで来て、想起するのは「自然結実」ヒガンバナの「在る」という事実だった。
▼まだまだ興味深いコトバが続く。
こういう種類の現象は分類的に見るとたいてい事がらが偶然的に統計的であって、古典的物理学の意味において deterministic でないような部類に属しているのである。 統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。
この文章を読んで、真っ先に思い出したのは、「大気の物理学」=気象のことだった。
そして、今年のノーベル賞 真鍋淑郞先生のことだった。
さらに寅彦の本意へと続く。
こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から虱(しらみ)つぶしに調べて行って、そうしてそれらの現象の中に共通なる何物かを求めることが望ましく思われる。
この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。 このような可能性への探究の第一歩を進めるための一つの手掛かりは、上記のごとき統計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。
寅彦がこう提案してから、ちょうど90年!!
その後、 この提案はどうなったのだろう!?
不勉強な私はそれを知らない。
今朝、「水栽培」中の「自然結実」ヒガンバナ花茎から、ひとつ粒の「種子」が土間にこぼれ落ちていた!!
| 固定リンク
コメント