本日(2021/06/11)、第287回オンライン「寅の日」!! #電車の混雑について #traday #寺田寅彦
▼池の水面の「青空」は、空の「青空」より青かった!!
最近、もっともお気に入りの「雲見」スポットだ!!
寅彦先生も「雲見」は大好きだったようだ。
電車待ちの時間にも「雲見」をやっていたようだ。
さりげなく こう語っていた。
青空に浮かぶ雲の形態を研究したりする。
▼本日(2021/06/11)、第287回オンライン「寅の日」である。
6月テーマも、5月テーマの続投で行きたい。
【6月テーマ】「寅彦随筆の面白さ」
その一回目の本日は、「電車の混雑について」を読む。
◆本日(2021/06/11)、第287回オンライン「寅の日」!!
▼タイトルだけ見ていると、一見「科学」とは無縁のことに思える。
さにあらず!!
気づけばすっかり寅彦ワールドだ!! ではお手並み拝見といこう。
電車の最も混雑する時間は線路と方向によってだいたい一定しているようである。このような特別な時間だと、いくら待ってもなかなかすいた電車はなさそうに思われるが、そういう時刻でも、気長く待っているうちには、まれに一台ぐらいはかなりに楽なのが回って来るのである。これは不思議なようであるが、実は不思議でもなんでもない、当然な理由があっての事である。この理由に気のついたのは、しかしほんの近ごろで、それまでは単に一つの実験的事実として認識し、利用していただけであった。
まずは現象の観察から入る。
このような律動の最も鮮明に認められるのは、それほど極端には混雑しない、まず言わば中等程度の混雑を示す時刻においてである。 そういう時刻に、試みにある一つの停留所に立って見ると、いつでもほとんどきまったように、次のような週期的の現象が認められる。
寅彦自身の対処法を語る。ここに先の「雲見」が出てくる。
私はいつもこうした混雑の週期的な波動の「峰」を避けて「谷」を求める事にしている。そうして正常な座席にゆっくり腰をかけて、落ち着いた気分になって雑誌か書物のようなものを読む事にしている。波の峰から谷まで待つために費やす時間は短い時で数十秒、長くて一分か二分を越ゆる事はまれなくらいである。その間には私はそこらの店先にある商品を点検したり、集まっている人たちの顔やあるいは青空に浮かぶ雲の形態を研究したりする。
そして、いよいよ本論に入る。
しかしここで私の考えてみたいと思う事は、そういう大多数の行為の是非の問題ではなくて、そういう一般乗客の傾向から必然の結果として起こる電車混雑の律動に関する科学的あるいは数理的の問題である。
あれ いつの間に「科学」の話題に!?
ここからが、「科学者」としての寅彦の本領発揮である!!
寅彦のみごとな「仮説」が展開される。しかし、それだけではホンモノの「科学」にはならない。
寅彦のほんとうにスゴイのは次だ。
私はこのような考えを正す目的で、時々最寄(もより)の停留所に立って、懐中時計を手にしては、そこを通過する電車のトランシットを測ってみた。その一例として去る六月十九日の晩、神保町(じんぼうちょう)の停留所近くで八時ごろから数十分間巣鴨(すがも)三田(みた)間を往復する電車について行なった観測の結果を次に掲げてみよう。
「仮説」を裏付けるための具体的実験観察データを準備しているのである。
さすが寅彦 \(^O^)/
▼結論もやはり、寅彦ならではのものであった。
それでもしこのような片寄りがちの運転状況を避けて、もう少し均等な分配を得たいというならば、そのために採るべき方法は理論上からは簡単である。第一には電車の車掌なり監督なりが、定員の励行を強行する事も必要であるが、それよりも、乗客自身が、行き当たった最初の車にどうでも乗るという要求をいくぶんでも控えて、三十秒ないし二分ぐらいの貴重な時間を犠牲にしても、次のすいた電車に乗るような方針をとるのが捷径(しょうけい)である。これがために失われた三十秒ないし二分の埋め合わせはおそらく目的地に着く前にすでについてしまいそうに思われる。
昔は、人に道を譲り、人と利福を分かつという事が美徳の一つに数えられた。今ではそれはどうだかわかりかねる。しかしそういう美徳の問題などはしばらくおいて、単に功利的ないし利己的の立場から考えても、少なくも電車の場合では、満員車は人に譲って、一歩おくれてすいた車に乗るほうが、自分のためのみならず人のためにも便利であり「能率」のいい所行であるように思われる。少なくも混雑に対する特別な「趣味」を持たない人々にとってはそうである。
寅彦随筆の面白さということで言えば、この「結論」だけで終わらないところも大きな魅力だった。
これは余談ではあるが、よく考えてみると、いわゆる人生の行路においても存外この電車の問題とよく似た問題が多いように思われて来る。そういう場合に、やはりどうでも最初の満員電車に乗ろうという流儀の人と、少し待っていて次の車を待ち合わせようという人との二通りがあるように見える。
これはおそらくだれにもむつかしい問題であろう。おそらくこれも議論にはならない「趣味」の問題かもしれない。私はただついでながら電車の問題とよく似た問題が他にもあるという事に注意を促したいと思うまでである。
私はこれを読んで、すぐさま中谷宇吉郎先生の「立春の卵」の最後の一節を思い出したのだった!!
寅彦がこれを書いたのは1922(大正11)年!!今から99年前だ!!
約100年、一世紀前だ。
寅彦はいつも古くて新しい!!
【テーマに沿っての蛇足】
(1) 寅彦随筆はいつ読んでも今日的である!!
(2)「仮説」を立て、それを立証するための実験観察を行ない、さらに結果の統計的解析を行なう。そこに「科学の方法」がある!!
(3)「科学者」寅彦の考察が面白い!!
(4) 日常を「科学する」ことの大切さを教えてくれている!!
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