本日(2019/10/20)、第236回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼本年の5月、私は根岸の子規庵を訪ねた。
そのとき、糸瓜の種子5粒を「おすそ分け」してもらった。半信半疑ながら5月の末にその5粒を蒔いた。
4粒が発芽した。実は糸瓜をきっちりと育てるのは、はじめての経験であった。試行錯誤の連続だった。
やがて大きな糸瓜がひとつできた!!
これで、今年は大満足!!と思っていたら、次々と巨大な糸瓜ができてきた。
「糸瓜忌」を一ヶ月も過ぎた。今も巨大な糸瓜が10個以上ぶらさがっていた。
さて、これからどうしたものやら ?(゜_。)?(。_゜)?
▼本日(2019/10/20)は、第236回オンライン「寅の日」である。
10月は「科学と文学」を2回連続して読むことにしていた。本日はその2回目である。
今回をもっていったん終りとする。
◆本日(2019/10/20)、第236回オンライン「寅の日」!!
▼寅彦の「活用」方法をみつけること!!
それが私がオンライン「寅の日」を続ける究極の目的だった。
結論から言うと、この「科学と文学」にこそ、最大のヒントがあると思っていた。
前回は、次なる文章を引用させてもらうことで終えていた。
そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
今回も同様の主旨の文章を連続して引用させてもらおう。
科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたその考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人(しろうと)にもおもしろくまた有益なものが少なくない。
それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。
これは何か!?
そうだ!! これぞ科学者に向けた「随筆のすすめ」なのだ!!
同時に寅彦が多くのすぐれた随筆を遺してくれた所以でもあるのだ!!
▼ここに寅彦の本意があると読み解いただけでは、私の究極の目的のヒントは見えてこない。
「科学者」でない私が言うのもおこがましいが、私も「随筆」を書きたいのだ!!
そのヒントをさがしていたのだ!!
科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。
それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。
これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。
このあたりに「ヒント」がありそうな気がするのだが…
やがて、私は「子規庵の糸瓜物語」を書きたいのだ!!
大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから30週目だった。
「私の大賀ハス物語」も書きたいな。大賀ハスと私は同い年だった!!
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