本日(2019/08/21)、第231回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼「雲見」の像の向こうの西の空に青空がやっと見えてきた!!
そのとき日は沈みはじめていた。
このまま一日の「雲見」終わるかと思っていた。とんでもなかった!!
すっかり寝入っていた。ところが真夜中近く、この夏、最大のカミナリにたたき起こされた。
もうすぐ近くに落雷したのではないかと思わせるものだった。雷雨もすごかった!!
しばらく真夜中の「雲見」をして再び眠った。
「雲見」をしながら、つくづくと考えた!!
2000年以上も前に「万物が原子からできている」なんてどこから発想したのだろう!?
またまたあの人のコトバを借りよう。
「ねえ君、不思議だと思いませんか?」
▼本日(2019/08/21)は、第231回オンライン「寅の日」である。
8月のテーマは「ルクレチウスと科学」である。本日で2回目である。
一回目で「緒言」を読んだだけだった。そこで、すでに9月も続投を決めた。
今回は、第一章に焦点をあてて読んでみることにする。
◆本日(2019/08/21)、第231回オンライン「寅の日」!!
▼正直に言うが、まだ2000年以上前にこの詩が書かれたということが信じられないでいた。
ポンコツ頭をフル回転させて考えるが、やっぱり納得いかない!!
現在の物理学における物質不滅則、原子の実在はだれも信ずるごとく実験によって帰納的に確かめられたものである。二千年前のルクレチウスの用いた方法はこれとはちがう。彼はただ目を眠りふところ手をして考えただけであった。それにかかわらず彼の考えが後代の学者の長い間の非常の労力の結果によって、だいたいにおいて確かめられた。これははたして偶然であろうか。私はここに物理学なるものの認識論的の意義についてきわめて重要な問題に逢着(ほうちゃく)する。約言すれば物理学その他物理的科学の系統はユニークであるや否やということである。しかし私は今ここでそういう岐路に立ち入るべきではない。ただルクレチウスの筆法を紹介すればよい。
そこのところが知りたいという気もするのだが…\(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ
「ルクレチウスの筆法」に話をすすめよう。
今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。
そしてここに述べられたアルファベットが寄り集まっていろいろな語を作るように、若干の異種の原子がいろいろに結合していろいろのものを作るという彼の考えはほとんど現在の考え方と同様である。のみならずおもしろい事には現在われわれは原子の符号にアルファベットを用い、しかもまたいろいろの物質をこれら符号の組み合わせで表わすのである。これは全然ルクレチウスの直伝である。
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。
▼読めば読むほどルクレチウスの凄さが見えてくる!!
あわせて最初のシロウトの不思議が頭をもたげてくる。
ついに、にわかには私には理解困難な領域まで話が及んでいく。
しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟(ひっきょう)時に関する従来の考えの曖昧(あいまいさ)に胚胎(はいたい)しているのではないかと考えられる。時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。
ともかくも物質元子に、物体と同様な第二次的属性を与える事を拒み、ただその幾何学的性質すなわちその形状と空間的排列とその運動とのみによって偶然的なる「無常」の現象を説明しようとしたのが、驚くべく近代的である。
私は近代物理学によって設立された物質やエネルギーの素量の存在がいわゆる経験によった科学の事実である事を疑わないと同時に、またかくのごとき素量の存在の仮定が物理学の根本仮定のどこかにそもそもの初めから暗黙のうちに包含されているのではないかということをしばしば疑ってみる事がある。われわれが自然を系統化するために用いきたった思考形式の機巧(メカニズム)の中に最初から与えられたものの必然的な表象を近ごろになっておいおい認識しつつあるのではないかという気がするのである。ルクレチウスは別にこの疑問に対してなんらの明答を与えるものではないが、少なくも彼は私のこの疑いをもう少し深く追究する事を奨励するもののように見える。
科学は畢竟(ひっきょう)「経験によって確かめられた臆断(おくだん)」に過ぎないからである。
この論議の中に、熱は元子の衝突運動であるという考えや、元子排列の順序の相違だけで物の変化が生じるというような近代的の考えも見えている。
ルクレチウスが今の科学に照らして最も不利益な地位に置かれるのは、彼がここで地を平面的に考え、「上」と「下」とを重力と離れて絶対的なものに考えている事である。
この物質量の無限大を論ずる条下に現われているもう一つの重要な考えがある。元子が集合して物を生ずるのは、元子の混乱した衝突の間に偶然の機会でできあがるものであって、何物の命令や意志によるのでもない。そういう偶然によって物が合成されうるためには無限の物質元子の供給を要するというのである。この「偶然」の考えも実に近代の原子説の根底たる統計力学の内容を暗示するように見える。偶然のみ支配する宇宙ではエントロピーは無際限に増大して死滅への道をたどる。
もうピックアップするだけが精一杯で、とてもじゃないがなかみの理解まではいかない。(^^ゞポリポリ
少なくとも今月中ぐらいは反芻作業を繰りかえしてみようと思う。
(つづく)
| 固定リンク
コメント