原子論的物質観と授業(2)
▼昨日(2019/08/23)は、「処暑」だった。
秋雨前線による雨は間歇的にはげしく降った!!
瞬く間に門先に小川をつくってしまった。
やんだと思ったら、またしても「残暑」をたたき落とすように降った!!
そしていっきょに秋めいていくのだった。
二十四節気「処暑」とは実にうまくいったものだ。
それは「科学」!? それとも単なる「偶然」!?
▼今しばらく問題としようとしているのは、そんな「つまらないこと」だった。
「つまらないこと」で頭にこびりついてしまった寅彦をめぐるひとつのエピソードがあった。
そのエピソードは大数学者吉田洋一先生が『数学の影絵』(吉田 洋一著 角川選書)のなかに書き残してくれていた。
●「つまらない」こと~寺田寅彦の思い出~ (同書p246)
吉田先生は学生のころ、たった一度だけ寺田寅彦の講演を生で聴いたことがあるそうだ。そして、その講演の最後の言葉が印象深くその情景を含めて忘れられないという。
講演の終りのところでも、またちょっと声を大きくされた。「何だか変なこというようですが、どんなつまらないことでも、つまらないといって捨ててしまわないで研究していくと、たいへん面白いことがみつかってくるものです」こういって、ちょっとはにかんだような表情をして退場された。(同書p248)
▼ルクレチウスは「科学」!? それとも単なる「偶然」!?
この度の「原子論的物質観と授業」連載のねらいを今一度確認しておく。
2つある。
(1) 今一度、私自身の「物質観」を吟味する!!
~ 「これから」のモノとのつき合い方を考える ~
(2)「ルクレチウスと科学」をより豊かに読み解く!!
▼あれっ!?
「授業」についてがない。そう今回は「授業」は私の方法であり、それ自体が「ねらい」ではない。
もちろん「授業」づくりに話が発展すれば、それもまたうれしいことではあるが。
さっそく秋雨前線の雨!!物質「水」を考えてみよう。
これほど身近にあって、つき合いの深い物質はないだろう。
物質「水」は、固体・液体・気体に状態変化する。どんな授業をしてきたのだろう。
サブタイトルをつけていた。
「鉄の気体はあるだろうか」
「酸素の固体はあるだろうか」
(つづく)
| 固定リンク
コメント