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本日(2018/10/25)、第205回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦

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あれ!?
 庭の「自然結実」ヒガンバナはどこへ行ってしまったのだろう?
 毎日いつでも観察できると安心しきっていた。気がついたらすべての花茎が枯れてしまっていて、あの子房部が膨らんだもの見当たらない。枯れた花茎をたどり、やっとのことで草むらからそれを探し出した。
 なんとそれはその部分だけ緑を残していた!!
 花茎を根元から引っこ抜き、コンクリートのうえにのばしてみた。
 あらためて子房部のみ緑を残して栄養を送り続けようとするその姿に感動!!
 ペットボトルに挿しこみ完熟を待つこととした。
 はたして完熟「種子」は手に入れることができるだろうか。

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▼本日(2018/10/25)は、第205回オンライン「寅の日」である。
 10月はずっと「科学と文学」を読んでいた。
 その最終回、3回目である。

◆本日(2018/10/25)、第205回オンライン「寅の日」!!

●「科学と文学」(3)(青空文庫より)


▼私はこの長編の随筆をできるだけ私の文脈にひきつけて読もうとしていた。
 それは、この随筆の中に「これから」の私に役に立ちそうなことが、たくさん含まれているような気がしていたからだ。
 繰り返し言うが、ここでは寅彦の軸足は「科学」「科学者」にあった。
 私が勝手に寅彦の本意はここにあると思っている部分がある。それが「随筆と科学」の最後にでてくる。

 それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。

 要するにこの随筆は科学者への「随筆のすすめ」なのである!!

▼科学者だけへの「随筆のすすめ」ならば、私には意味をなくしてしまう。
 そこで、勝手に「科学者」を「科学する者」と読み替えてしまいたい。
 そうすると示唆的な文章がつづく

 科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
  

ホンモノとニセモノの見分け方まで指南してくれていた。

そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。

さらにはここまで言ってくれていた。

 それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。

そして、「どうしたら文章がうまくなれるか」に答えて、次のように語っていた。

そういう場合に、自分はいつも以上のような答えをするのである。何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのかほとんどわからないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。

なんと示唆的!!

 庭のヒガンバナは「葉の季節」へと完全にシフトしていた。
 いつの日か私も「自然結実」ヒガンバナ物語の随筆を書いてみたいものだ。

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