本日(2018/07/21)、第197回オンライン「寅の日」!!#traday #寺田寅彦
▼前の竹藪の椿にみごとな実がいっぱいできていた!!
あんなにたくさん花が咲いていたのだから実ができてアタリマエ!!
このアタリマエにいたく感動するのだった。
この椿の花で、寅彦の真似をして「椿の花の落下実験」を行っていた。
実験とたいそうに言ってもたいしたことではない。
ただ落ちた椿の花が「仰向き」か「うつ向き」か?その数を数えるだけである。
この度建つ寅彦の銅像も、「椿の花の落下実験」をおこなっている姿がモチーフになっているという。
▼本日(2018/07/21)は、第197回オンライン「寅の日」である。
7月のテーマは
「寺田寅彦の銅像 建立記念特集」
である。今回は、この「椿の花の落下実験」に関連して「思い出草」を。
台座の
「ねえ君 ふしぎだと思いませんか 寺田寅彦」
に関連して「科学者とあたま」を読みたい。
建立記念特集ということで、ちょっと欲ばりになって2つを読む。
◆本日(2018/07/21)、第197回オンライン「寅の日」!!
▼まずは「思い出草 二」からである。
思い出というのは漱石との思い出である。
「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿(つばき)かな」漱石先生の句である。
こんな書き出しからはじまる。そして、
ところがこの二三年前、偶然な機会から椿の花が落ちるときにたとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察しまた実験をした結果、やはり実際にそういう傾向のあることを確かめることができた。
とつづける。
実際に理研の庭に椿を植え、実験をし、科学論文にまでしあげてしまうのである(゜o゜)ゲッ!!
好奇心などという域ははるかに越えてしまっている!!
そして、最後にこうだ!!
こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末(さまつ)な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである。
こう言われるとうなずくのみでアル (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
▼次は、「科学者とあたま」である。
「ねえ君 ふしぎだと思いませんか 寺田寅彦」に関連して、どうして「科学者とあたま」なのか。異論もあるところだろう。
あの有名な警鐘「天災は忘れられたる頃来る」と同様、数ある随筆のなかに「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」の文言は直接出てこない。
弟子である中谷宇吉郎先生が『寺田寅彦 わが師の追想』のなかに、当時中谷が学生のころ寅彦先生がよく語っていたと記されているのみである。
それにしてもいいコトバだ!!
どの随筆のなかにも、このコトバはふくまれているような気がする。
どれかひとつをと言われれば、私はオンライン「寅の日」でも、いちばん多く読んできた「科学者とあたま」をあげたい。
そのこころは 次のようなところに…
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。
さらには
自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
やっぱり、私にはあのコトバに近い!!
と思えるのだ!!
来週になれば、寅彦の銅像を訪ねる旅に出たい!!
残りひとつになってしまったコガネグモが大きな獲物をつかまえていた。
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