【祝】本日(2017/01/15)、第150回オンライン「寅の日」!!#traday
▼朝、東京にいた。
そんなにいつでも東京に出てくるわけではない。せっかくこの機会に行ってみたいところはいくつもあった。
時間も限られているし、雪の心配もあった。
2つに絞った。
今日のことがあるから、できるだけ寅彦ゆかりの地にしたかった。
そこで、ひとつは「子規庵」にした。
寅彦は、夏目漱石の紹介で正岡子規を訪ねていた。そのときのことを「根岸庵を訪う記」に書いている。
庭のヘチマ棚のヘチマ大きく成長していた。
そこのヘチマの種が売られていたので買った。
はたしてうまく育てられるかな。
▼本日(2017/01/15)は第150回オンライン「寅の日」である。
2012年の4月からはじめたこの取り組みも、ついに150回目である。\(^O^)/
自分で面白くなくなったらいつでもやめようと思っていた。幸いなことに、やる度に面白くなってしまった。
今では、12日にいちどの愉しみになってしまった。
1月のテーマは、子規とも大いに関係のある
・寅彦と「俳句」
である。その第2弾として「天文と俳句」を読む。
◆本日(2017/01/15)、第150回オンライン「寅の日」!!#traday
▼ポンコツ頭はよりポンコツ度を加速してきているのだろうか。
どうしても自分の勝手な「文脈」にひきつけて読んでしまう(^^ゞポリポリ
寅彦はなにを書いても軸足を「科学者」に置いている!!
今回の「天文と俳句」もやはりそうだった。
なかでも気になったところを引用させてもらう。(これをできるだけひかえようとは思っているのだが、どうしても…スミマセン)
季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。
花鳥風月を俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。
要するに俳句は抽象された不易の眞の言明だけではなくて具體的な流行の姿の一映像でなければならない。
▼これまた我田引水の話であるが、理科教育とも関連して興味深いことを言っていた。
古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受けた今の人のに、そのわりに少ないやうに思はれるのも不思議である。昔の人は文部省流の理科を教はらないで、自分の眼で自然を見たのである。
そして次のようにまとめていた。
要するに此處で所謂「天文」の季題は俳句の第一要素たる「時」を決定すると同時に「天と地の間」の空間を暗示することによつて、或は廣大な景色の描寫となり、或は他の景物の背景となる。子規が天文地理の季題が壯大なことを詠ずるに適して居ると云つたのも所由のあることである。
訪れたもうひとつの場所もまんざら寅彦と無関係ではなかった。
「気象庁」「気象科学館」「北の丸公園露場」だった。けっこう面白かった!!
東京では雪は降っていなかったが、福崎に帰えりついたときは、すっかり雪だった。
駐車場に置いた車にはかなりの雪が積もっていた。
動かすまでに一苦労した。
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