本日(2016/10/23)、第142回オンライン「寅の日」!!#traday
▼「客観写生」
「見るから観るへ」
俳句の世界でよく言われることだ。考えてみるとこれは「科学」の世界にも通ずることなのかも知れない。
車庫の上のジョロウグモは、昨日から「ぶらさがり体勢」に入ってしまった。柱にぶらさがったまま動きをしめさない。もう一匹の玄関先のジョロウグモも方向を変えたままじっと動かない。夕方、あたりが暗くなってからこちらもまた「ぶらさがり体勢」に入った。玄関先ということもあって家中が大騒ぎになった。(^^ゞポリポリ
ほんとうに「産卵行動」に入っているのだろうか?
私はまだ「見ている」だけではないだろうか? もう少し継続観察が必要なようだ。
▼本日(2016/10/23)は、第142回オンライン「寅の日」である。
10月のオンライン「寅の日」のテーマは、その「科学」の世界のもっとも根源的な問い
・私たちにとって 「科学」とは?
である。
読んでいるは「科学と文学」。今回はその後半である。
◆本日(2016/10/23)、第142回オンライン「寅の日」!!#traday
▼後半の小見出しは次のようになっていた。
・随筆と科学
・広義の「学」としての文学と科学
・通俗科学と文学
・ジャーナリズムと科学
・文章と科学
・結語
それこそ私の勝手な読みであるが、結論は後半の最初に書かれているように思えた。
それはこうだった。
科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。
そのひとつ前にもこう言っていた。
しかし、科学者の考え方は唯一無二のものではない。また科学者の成しうるすべては、ただ可能性の指摘あるいは暗示である。かくすべしという命令は科学者としての任務のほかであることはもちろんである。これは忘れてならないことで、しかも往々にして忘れられがちなことである。 そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
これこそが、この随筆を通して最も言いたかったことなんではないだろうか。
書かれた昭和八年と言えば、寅彦が亡くなる前々年だ。後から来る若き科学者たちに
「随筆・エッセー書こう!!」呼びかけたのではないだろうか。
「随筆・エッセー」の可能性が次々とあげられていた。
これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたその考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人しろうとにもおもしろくまた有益なものが少なくない。
それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。
科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
等などである。
これぞまさに「随筆・エッセーのすすめ」なのである。
▼寅彦は科学者にだけでなく、読者である我々にも示唆的なことを語ってくれていた。
ホンモノとニセモノの見分け方だ。
そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。
読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。
さらにはシロウトが文章を書くときの心得にまで言及してくれていた。アリガタイ!!
大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから30週目だった。もう緑を残す葉は一枚もなくなってしまった。
枯れた葉が冷たい風で擦れてカサカサと音をたてていた。
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