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新・私の教材試論(106)

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紅梅の紅の通へる幹ならん  高浜虚子

 なんとすごい観察眼!!
 2月(如月)の俳句「歳時記にあげた一句だ。見えないものまで見てしまう観察眼とは…。
あの紅梅がほころびはじめた。試しに幹を見てみた。
「紅の通へる」はほんとうだった!!
 自然を観察することに徹し、感動を一句に詠み込む。
そんな営みは、どこか「教材」づくりに通ずるところがあると思うのだが。
そこまで言えば我田引水が過ぎるだろうか。
▼仕切り直しの「教材試論」を続けよう。
勝手につくった「すぐれた教材の法則」まできた。
 ところでその「教材」はどこで生まれるのだろう?
私は「授業」で生まれると確信していた!!
 そんなえらそうに人に言えるほどの授業実践をしてきたわけではない。
でも、やっぱり確信を持ってこのことは言える。
 「教材」は「授業」で生まれ、「授業」を変える!!
たったひとつの「実験」が、劇的に「授業」の流れを変える。
とりわけ理科の「授業」ではそんなことがある。
理科の「授業」をしてきたものなら、一度や二度はそんな体験があるはずだ。
▼きわめてアタリマエのことであるが、「教材」と「授業」は不可分の関係にある。
 数々のすぐれた実験を開発してこられた鈴木清龍先生が『やさしく本質的な理科実験4』(鈴木清龍・若生克雄共編 評論社 2001.10.10)のまえがき「実験集の歴史と特質」のなかで、とても示唆的なことを書いておられた。

 理科ぎらい、理科ばなれがいわれますが、そんな状況のなかで実験書、ものづくりは花ざかりのようです。超教科は脱学校を生みだしています。(それはあだ花か。)私たちは脱学校のなかから、学校での学習が再構築されると考えていますが。  それは、これまでの蓄積の成果を自らのものとして、子どもの要求に敏感に反応し対応できるように自らをつくっていくことによるしかないのではないでしょうか。 2001年8月  (同書P4)

▼これからでも15年の歳月がたった。
状況はかわったのだろうか。
今の私にはわからない。
わかっていることがある。

「すぐれた教材」は、授業のコンテクスト(文脈)から生まれる!!
はじめにコンテクストありき!!

ということだ。

(つづく)

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