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本日(2016/01/09)、第118回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼「雲見」の面白さは?
と問われると答えに窮してしまうところがある。
「やってみたら、わかるのでは…」としか答えられない。人それぞれの楽しみ方があるのではないかと思っている。私の場合なら、少し答えられる。
 「八日」の「雲見」も面白かった。冷たい風が吹き、寒中らしくなってきた。
 次々と表情を変える雲を見ているだけでもけっこう面白い。「雲見」をしながら、今自分がいる「大気の物理学実験室」での大気の動きを想像してみる。
 これが実に面白い!!
あの雲はほんとうに氷晶でできているのだろうか?
わずか10㎞ほど上空の大気はほうとうにそんなすごい風(ジェット気流)が吹いているのだろうか?
 ときに、高層天気なども参考にさせてもらう。
ホントだ!!
これだけ温度が低ければ「氷晶」にも納得!!60m/sの風(ジェット気流)も納得!!
また、再び「雲見」をかえる。「実験室」のイメージがより膨らむ。
やっぱり、「雲見」は面白いものだ。
 100年も前に科学者・寺田寅彦は、正確にではないにしても、「氷晶」のことも、「ジェット気流」のことを知っていたらしい。さすがだ!!
 きっと、寅彦は「宇宙見物」だけでなく、「雲見」も大好きだったにちがいないと勝手に思っている。
▼今日はその寅彦を読む日だ!!
今年はじめてのオンライン「寅の日」。第118回オンライン「寅の日」だ。
 一月のテーマは「文化としての科学」だ。
大きなテーマである。どこからはじめればいいのやら躊躇してしまうが、まず読めば、きっと寅彦自身が答えてくれると信じている。第一弾は「科学者と芸術家」である。
ちょうど100年前に書かれたものである。100年後の今、どう読めるだろう?

◆本日(2016/01/09)、第118回オンライン「寅の日」!!

●「科学者と芸術家」(青空文庫より)

▼この随筆が書かれた1916年(大正5)は、寅彦にとってはとても意味ある年だった。
東京帝国大学理科大学教授に就任した年であり、胃潰瘍発病をしたのもこの年。
そして、この文章にも登場する生涯の師・夏目漱石が亡くなったとしでもある。
 高知県立文学館(寺田寅彦記念室)寺田寅彦記念館で、彼の描いた絵や、愛用した楽器などを見せてもらっているとすぐれた「芸術家」としての顔ももっていたことがよくわかる。今で言う「文理融合の人」だったのだ。
 この文章を読みはじめたときは、「科学者」「芸術家」というふたつの顔をもつ寅彦が「科学者」と「芸術家」の橋渡しをするために書いたのかと思っていた。そのつもりで読んでいた。
 もちろんあの説得力あるコトバが並ぶ。ナルホドとうなずくばかりだ (゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン
そして、前半最後にこうしめくくる。

このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。

▼そして、こう続ける。

しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。

では「この編の目的」はどこにあるのだろう!?
ここからは、浅学な私の勝手な読み解きである。
この文章の「目的」は、「科学者」「芸術家」に語りかける呈をなしながら、自分自身を語ることにあったのではないか。「科学者」「芸術家」の二つの顔をもつと言われるけど、それは「別の顔」をもつと見られねかも知れないが、「私のなかではひとつことなんだよ!!」と独白したかったではないだろ。
いや、そう書くことで自分で納得したかったのではないだろうか。自らのアイデンティティを求めていたのでは?

だから、常に軸足は「科学者・寺田寅彦」にあった。
そんなつもりで読みなおしてみるとまたちがって読めてきた。
後半は、これ以降展開していく自らの「研究」の作風を書いているのでは?

観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。
総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。
また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。

もちろん寅彦はセレンディピティが突然訪れものではないことは心得ていた。
だからこう言っていた。

 もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。

最後にはぜひとも留意しておくべきことまで書いていてくれた。

芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。

 こうして読み進めてみると、これらの文章が「これから」の科学を考える上でとても重要な示唆をあたえてくれるように思えた。
 これは、まさに「寺田物理学」宣言だ!!


さあ、今日の「雲見」どうだろう。
何が見えてくるかな?

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