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本日(2015/12/31)、第117回オンライン「寅の日」!!#traday

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▼昨日(2015/12/30)の朝もよく冷え込んでいた。
とは言っても、それはここ数日のことであり今年の師走は異様にあたたかった。
 その影響だろうか。前の竹藪のいつもの場所の椿は、たくさん咲いていた。
すでに落ちた花も見られた。
 この椿の花を見ると、すぐさま頭に浮かぶことが2つあった。
ひとつは、奈良二月堂の「お水取り」の椿である。
もうひとつはあの寅彦の「椿の花の落下実験」だった。
▼そう、今日(2015/12/31)はその寺田寅彦の命日である。
寺田寅彦はちょうど80年前の大晦日(1935年(昭和10)12.31)に転移性骨髄症により病没したのだ。
 オンライン「寅の日」をはじめた2012年より、毎年大晦日の今日は、特番オンライン「寅の日」としてきた。
読むものも決めていた。最晩年(1935)に発表された「日本人の自然観」にしていた。

◆本日(2015/12/31)、第117回オンライン「寅の日」!!

●「日本人の自然観」(青空文庫より)

▼毎年同じ日に、それも大晦日に同じ文章を読むことに大きな意義があると思っている。
ある意味で一年間のオンライン「寅の日」の成果を問うことにもなるだろうとも思っている。
 また、これはまったくの我田引水になるが、選んだ文章が最適だった。
最晩年に書かれた「日本人の自然観」には科学者・寺田寅彦のすべてが集約されていた。
「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」
「天災は忘れた頃にやって来る」
も含めて、全部含まれていた!!
▼引用ばかりが先行するが、今年の「読み」で私に響いてきたところをあげてみる。

 われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。

 はじめに、ここではっきりと寅彦自身の「自然観」を表明していた。自然と人間は対峙するものでなく、「有機的一体」を成すものであると。
 そして、「日本の自然」に具体的に触れたあと次のように要約していた。

 

これを要するに日本の自然界は気候学的・地形学的・生物学的その他あらゆる方面から見ても時間的ならびに空間的にきわめて多様多彩な分化のあらゆる段階を具備し、そうした多彩の要素のスペクトラが、およそ考え得らるべき多種多様な結合をなしてわが邦土を色どっており、しかもその色彩は時々刻々に変化して自然の舞台を絶え間なく活動させているのである。

自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の経験をわが物として自然の環境に適応するように務めるであろう。前にも述べたとおり大自然は慈母であると同時に厳父である。厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等にわれわれの生活の安寧を保証するために必要なことである。

「これから」の「科学」を示唆して次のようにも言っていた。

西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、従って伝来の相地の学を蔑視(べっし)して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実にいくじもなく壊滅する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁(ひんぱん)に起こるように思われる。昭和九年十年の風水害史だけでもこれを実証して余りがある。
しかるに現代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。

ここに警鐘『天災は忘れた頃にやって来る』の由来があった。
さらに「日本人の日常生活」に触れ、次のようにも語っていた。

 農業者はまたあらゆる職業者の中でも最も多く自然の季節的推移に関心をもち、自然の異常現象を恐れるものである。この事が彼らの不断の注意を自然の観察にふり向け、自然の命令に従順に服従することによってその厳罰を免れその恩恵を享有するように努力させる。
 津々浦々に海の幸(さち)をすなどる漁民や港から港を追う水夫船頭らもまた季節ことに日々の天候に対して敏感な観察者であり予報者でもある。彼らの中の古老は気象学者のまだ知らない空の色、風の息、雲のたたずまい、波のうねりの機微なる兆候に対して尖鋭(せんえい)な直観的洞察力(どうさつりょく)をもっている。長い間の命がけの勉強で得た超科学的の科学知識によるのである。それによって彼らは海の恩恵を受けつつ海の禍(わざわい)を避けることを学んでいるであろう。

私は大きく膝をたたいた。ここに使い続けてきた「常民の科学」をみつけた思いになった。
そして「日本人の精神生活」に入り、これからの科学者の仕事についても示唆してくれていた。

 現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。

それから、私自身が今もっとも興味ある世界についても触れてくれていた。

こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本が最も雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることのできるものである。これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とは全く趣を異にしたものである。
 短歌俳諧(はいかい)に現われる自然の風物とそれに付随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳諧歳時記(はいかいさいじき)がある。俳句の季題と称するものは俳諧の父なる連歌を通して歴史的にその来歴を追究して行くと枕草子や源氏物語から万葉の昔にまでもさかのぼることができるものが多数にあるようである。私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる。

これはあくまで私の「文脈」に沿った読みで響いてきたところである。
アタリマエだが、ちがう人の「文脈」で読めば、まったくちがったちがったところが響いてくるだろう。
それもまたぜひ知りたいところである。
今日一日は、80年の時空を超えて寅彦から大いに学びたいものだ!!

来年はどんな「読み」ができるだろう。それも楽しみである。
来年もよろしく。

椿の花が本格的に咲き、落ち始めるのは来年のいつごろからであろう?

 

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コメント

楠田先生、こんにちは。

 鈴木勝浩です。
 2015年も間もなく終わりますね。
 そして、新しい2016年が。

 ジョロウグモ、12月27日に・・・。
 それにしても、姿がないということは・・・。
 どこかで生きているのでしょうか?

 本当に、本年もありがとうございました。
 
 どうぞ、今後とも、よろしくお願いいたします。

 失礼いたします。

投稿: 鈴木勝浩 | 2015/12/31 17:32

鈴木勝浩さん
コメントありがとうございます。
そうなんです。
消えたというもののそのあたりに遺骸がないから、ひょつとして…とまだ思っています。
糸がかなり離れた位置にも見えますので…。

この一年コメントありがとうございました。
2016年もよろしくお願いします。
では、よいお年を…<(_ _)>

投稿: 楠田 純一 | 2015/12/31 18:15

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