本日(2015/12/04)、第114回オンライン「寅の日」!!#traday
▼「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」
と言ったのは寅彦だった。
朝まで降っていた雨はやみ、やがて見えてきた青空を雲は西から東へせわしなく走っていた。
風はどんどん冷たくなり厳しさを増していった。
こんな風は何と言うんだろう?
試みに手元の歳時記を開いてみた。
「凩」
「寒風」
「北風」
「空っ風」
「北下」
「ならひ」
等々ずいぶんいろいろあるもんだ!!どれがこの風にピッタリと来るのかな?
▼本日(2015/12/04)は、第114回オンライン「寅の日」!!
12月は、俳句・連句と寅彦の「自然観」をテーマに読んでいきたい。
今回は、その第一弾として「天文と俳句」を読む。
◆本日(2015/12/04)、第114回オンライン「寅の日」!!
▼私は、ここ数年がらにもなくというか、自らの非才も省みず「俳句もどき」を作り続けている。
いっこうに上達の気配もない。それは自分でもよくわかる。(^^ゞポリポリ
なのになぜ飽きもせずにそれを続けるのか。
その答えをあの寅彦が代弁してくれているような気がするのが、この一文だ!!
読んでいるとうれしくなってくるのである。
・季語とは何か?
・俳句とは?
・自然科学と俳句はどのような関係に?
・自然を観察するとは?
等々 すべてが書いてあった。
さっそく少し引用させてもらおう。
季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。
花鳥風月を俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。
要するに俳句は抽象された不易の眞の言明だけではなくて具體的な流行の姿の一映像でなければならない。
此れは俳句が所謂モンタージュの藝術であることを明示する。
▼結論を少し急ぐ。
古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受けた今の人のに、そのわりに少ないやうに思はれるのも不思議である。昔の人は文部省流の理科を教はらないで、自分の眼で自然を見たのである。
要するに此處で所謂「天文」の季題は俳句の第一要素たる「時」を決定すると同時に「天と地の間」の空間を暗示することによつて、或は廣大な景色の描寫となり、或は他の景物の背景となる。
ここに、私が「俳句もどき」にこだわりたい理由があった。
俳句結社・「寅の日」会の夢は未だ消えやらず!!
今朝の風は、さらに冷たくきびしさを増していた。
なんと呼ぼうかな!?
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