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本日(2014/11/27)、第82回オンライン「寅の日」!! #traday

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▼曇り空のもと、あのゲホウグモが残していった第4「卵のう」が北風にゆれていた。
あのゲホウグモいなくなって10日が過ぎた。今年の夏、秋は貴奴の観察三昧の日々だった。
138日間、昼夜関係ないつきあいだった。
 今、その日々を思い出しながら、自らの才覚もかえりみることなく無性に「ゲホウグモ物語」を書きたい衝動に駆られている。そんなとき思い出すのがあの人のことだ。
あの人とは寺田寅彦のことだ。
彼だったらこの「ゲホウグモ物語」をどう書いただろうと思う今日この頃である。
▼本日はその寅彦を読む日だ。
あの第一回オフライン「寅の日」から12日がたったのだ。
今、いちばんに考えてみたい問いがある。それは
「今、なぜ寺田寅彦なのか?」
だ。今回読む「科学と文学」は、その問いに答える糸口を与えてくれそうな気するのである。
しかし、なにしろ長編である。そこで今回一回かぎりというのでなく12月オンライン「寅の日」でも引き続き読みたいと思っている。つごう3回に分けて読みたい。

◆第82回オンライン「寅の日」

●「科学と文学」(青空文庫より)

▼自慢げに言うことではないかも知れないが、私は「文学」などというものにはほとほと縁のない人間である。
では「科学」の方はどうか言うと少しは縁のある仕事をしてきたかと思うぐらいのポンコツ理科教師である。
そんな私がなぜ強く寅彦の書いたものに惹かれるか。
自分自身でもうまく説明しきれなかった。それが「今、なぜ寺田寅彦なのか?」の自問にツナガッテイルのだろう。
今回の「科学と文学」もやっぱり面白い!!
第一回目の今日は「緒言」「言葉としての文学と科学」あたりまでとしたい。
「緒言」から惹きつける言葉が並んでいた。
寅彦の軸足は「科学」にあった。それはいつものことであるが、その言い切りがとても新鮮である。

もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。
全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。

▼「言葉としての文学と科学」においても惹きつける文章が並んでいた。

象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。
方則に従っていればこそ、それと同じような現象が過去にも起こりまた未来にも起こりうるのであり、かくしてその作品は記録であると同時にまた予言として役立つものとなるであろう。
 科学というものの内容も、よく考えてみるとやはり結局は「言葉」である。
 言葉としての科学が文学とちがう一つの重要な差別は、普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。


まだまだある!!
しばらくの反芻作業が必要なようである。
私などとはまったく違った読み解きがあるかも知れない。それがオンライン「寅の日」のなによりの楽しみだ。

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