本日(2014/10/10)、第78回オンライン「寅の日」!! #traday
▼昨夜は前日の月食観察の疲れからか早い時間からTVを見ながら眠ってしまっていた。
そのためか真夜中に目があいた。
普段起きている時間ではないので、いいチャンスと外に出て柿の木のところへ行ってみた。
少し雨が降ったようだ。それはやんでいた。
貴奴(ゲホウグモ)はきっちりとネットをつくっていた。それも、これまでとはちがった低いところにだ。
そのため、眼前でまじまじとその姿が観察することができた。
目の前で「店じまい」の糸技(いとわざ)も見せてくれた。さらには柿の木に留まった姿まで見せてくれた。
庭は早朝より「まるごとクモ博物館」だった!!
▼一昨日は「まるごとプラネタリウム」!!
毎日が「大気の物理実験室」!!
身のまわりの自然観察とはそんなものかもそんなものかも知れない。
寅彦は言った
「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」
と。
その「俳句」と「自然観察」について寅彦が書いたものを読み解くのが今回のテーマである。
本日(2014/10/10)は第78回オンライン「寅の日」である。
◆第78回オンライン「寅の日」
●『天文と俳句』(青空文庫より)
▼私はこの文章によってこれまで以上に「俳句」というものに興味がわいてきた。
だから、お薦めのひとつである。
「科学」と「俳句」一見、まったく異なる世界のように思えるが、そこには深いツナガリがあると寅彦は言う。
まず出だしはこうだ。
俳句季題の分類は普通に時候、天文、地理、人事、動物、植物といふ風になつて居る。此等のうちで後の三つは別として、初めの三つの項目中に於ける各季題の分け方は現代の科學知識から見ると、決して合理的であるとは思はれない。
そして、俳句の生命線「時の決定」を次のように説く。
季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。
併し、此のやうに、兎も角も表面上では場所の空間の表象を省略することが許されるに拘らず、時の要素の明瞭な表面が絶對必要とされるのは何故か。此れには深い理由があり、此事が又あらゆる文學中で俳句といふものに獨自な地位を決定する根本義とも連關して居ると思はれる。此に就て此處で詳しく述べて居る餘裕はないが、無常な時の流れに浮ぶ現實の世界の中から切り取つた生きた一つの斷面像を、その生きた姿に於て活々と描寫しようといふ本來の目的から、自然に又必然に起つて來る要求の一つが此の「時の決定」であるこ とは、恐らく容易に了解されるであらうと思はれる。
芭蕉が説いたと云はるゝ不易流行の原理は實はあらゆる藝術に通ずるものであらうと思はれる。
▼この文章の結論が最後にあった。
要するに此處で所謂「天文」の季題は俳句の第一要素たる「時」を決定すると同時に「天と地の間」の空間を暗示することによつて、或は廣大な景色の描寫となり、或は他の景物の背景となる。
その前に我々理科教育者にとってはきわめて挑発的な文章があった。
古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受けた今の人のに、そのわりに少ないやうに思はれるのも不思議である。昔の人は文部省流の理科を教はらないで、自分の眼で自然を見たのである。
反駁したい気持ちはあるが、浅学な私には無理である。
せめてこの挑発にのって、
「俳句」こそは、すぐれた自然観察の産物と認め、。
「俳句」をすぐれた「科学の方法」として採用する試みに挑戦してみたい
俳句結社「寅の日」は遠い遠い夢物語かも知れない。しかし、歩みはとめないでおこうと思う。
ちなみに「クモ」は手持ちの歳時記では夏の季語だという。
貴奴(ケホウグモ)はいつまでがんばるだろう。
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