新・「自由研究」のすすめ試論(99)
▼2014年前半最後の日も大賀ハス三昧の一日だった。
今年度2つ目開花の大賀ハス「あこがれの4日間」の三日目であった。二日目、三日目が全開となる。
果托は色を変え次世代へのバトンタッチのサインを出しているようだった。
でもほんとうに「種子」になるのはいくつあるのだろう?
それはもう少し観察をつづけなければわからない。
▼7月に入った。
続けて「自由研究」の源流を追ってみようと思う。
戦後の「学習指導要領」に現れた「自由研究」の文言をみつけたが、それは教科課程のなかの「自由研究」だった。それでも発想自体の源流であることは確かだ。
▼では、戦前ではどうだろう?
「自由研究」の文言は使われていなかったのだろうか?
「自由研究」の歴史と聞いて咄嗟に思いだしたことのもうひとつがこれだった。
我らが寺田寅彦だ。オンライン「寅の日」でも何度か読んだ「雑感」(青空文庫より)にあった。
こうだ!!
小学校でも中学校でもせめて一週間に一時間でもいいから、こういう「自由研究」の時間を設けて、先生も生徒も一緒になって、何でも手近な題目を取扱い、そうして、自然が如何に分らない事だらけであるかという事、その分らない事が、熱と根気で向って行けば少しずつ少しずつ分って行く事、その少しずつ分って行く少なくも分ったような気がして行く事が如何に愉快なものであるかという事などを実習したらいいだろうと思う。先生の分らない事は大抵誰にも本当はよく分らない事である。分らない事は恥でも何でもない。分らない事を分ったような顔をするほど恥ずべき事はない。
理科教師に向けての寅彦からの「熱きエール」と読みとれるこの一文のなかに「自由研究」の文言が登場するのは示唆的である。
▼この文章の原典は(昭和三年十一月『理科教育』)(1928)となっている。
このときに突然として「自由研究」という文言を持ち出したとは考えにくい。
さらなる源流がきっとあるはず!!
ゆっくり ゆっくりたどってみよう。
2014年後半がはじまった。
7月だ。大賀ハス「あこがれの4日間」4日目だ。
きっと花びらはちっていくだろう。
出かける、そのため「レコロ」を設置した!!
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